モーニング勘違い考察 第一回 ヘタウマについて

千葉雅也が、坂口恭平との勘違い創作講座で、坂口の「俺ヘタウマ嫌いやから」を聞いたあとに、あえてヘタウマという言葉を使ったことには大きな意味があると思う。ヘタウマという言葉自体、だから使ったのだと俺の目からは見える。これをツイートしようとしたら、今以上に俺の、俺がみた場合の話をしてるよ!という旨の付箋をたくさん貼ることになりそうだったので、こちら行きになりました。この動きも、千葉さんだらあっさりそうしそうだと想像してそうした。

ヘタウマから始めて、自分なりに向上させていく。結果的に、というかその過程自体が大きな「ヘタウマ道」であるともいえるのだが、その道を進むことは「開き直ってヘタウマであれ!」を意味しない。ヘタウマなりに、と卑下するのでもなく、自分の足元のその度確かめる、オリジンに立ち返るにあたって、この「ヘタウマ」を使いなさい、ということなんじゃないか。つまり僕のやっている、初動の研究と繋がってくる。まあ俺がやらんでも、当たり前のようにそれをやって、自分なりの答えを見つけている人は余裕でいるということでもある。先人の知恵を大いにいただいてから、研究をしている。

https://x.com/masayachiba/status/1799019990936649967?s=46 より

昨日から気になってしゃーない千葉さんのツイートをとりあえず貼る。「中途半端に外的な規範を経由して自己を真面目に反省することから他者への抑圧も始まる。」を引こうとしたのだが、このツイート内で「自己の手持ちのものに立ち返」ることについても言っていた。

〜でいい、という言い回しが少し前に流行っていたが、なんかあれも無責任だよな、いやそう言いたいんじゃない。責任とかはどうでもよく、それ、読者がというか俺が、その後、寝てていいと言われて寝ているその最中にも、もう一度立ち上がって何かおれの言葉で喋りたいよ、とか、同時に行動も激しくしたがっているのだってそこが大事なのに、大事なところを切り捨てちゃってんじゃん、商品(というより作品)として成り立たせるために切断は必要だが、そこ切っちゃうのかという。嫌だったのはきっとそこだ。

切断のタイミング、場所がいやなものといえばお笑いで、笑えるから好きだけどお笑い、でも同時にあれって、その文脈をひとつの意味に落としこんで、みてる人がそうにしか見えないようにさせる、って技術だから、やる人もやられる人もそこに自覚的じゃないと。ただただ、面白くなりたさみたいなものが余っているとして、とりあえずこれやっとけば間違いなさそうには見えて、でもそのコントの構造だろうがなんだろうが、このお笑いとはなにか、なんで笑ってるのかってところを自分なりに突き止めない限りはなにも考えてないこと一緒だよ。そういう感想はあんまり偉そうに言わないほうがいいよっていうのは俺が見たくないだけなんだけど、そういう感想じゃないものを、「身体性の伴ったもの」とかいって雑に吐き捨てたくもないわけ。それってぱっと見そうなだけのものもいっぱいあるわけで、肌で感じたとか振動がどうとかいっとけばいいことになるし、結局お前の過去のしょーもないあれこれと接続して、それだけでは哲学的に身体的とはたぶん言えなくて、大事なのは切断なんだよ!ってフレーズまではサッと出てくるんだけどここで疲れちゃったので、文末は留保しておく。言いたいことはまとまっている気がする。


https://x.com/tobatoppers/status/1805873158677053897?s=46 より

この「ダシ」という言葉も心に残る。この前の千葉さんの、「環境問題」だ、あれもそうだが、TwitterのID+うろ覚えワードでしぼり込んでみたら、その言葉を使ってまさに気になっていたところが繰り返し述べられているケースがあって、めちゃくちゃ嬉しくなる。ありがとうございます、勉強させてもらってます。

しかしこの、自己の主張のダシにするというのと、他者の言葉を借りつつ、自らのうちから湧いてでてくるものと共にマテリアルに並べる、ということとの線引きが難しい。まあ、いや、ガチンコで書いてれば大丈夫かと言おうとしたが、ただかかってるだけの文章なんてまさにダシにしちゃってるもんな。まあダシにしないように、って書くもんでもないのだろうが、内省ポイントとして心に留めておくのがいいのかな。それはそうと今、マテリアルという言葉をどうしても使いたかったので、あまり使う言葉ではないから、例のID+マテリアルで千葉さんのツイートを検索し、用例を確認してきた。とにかく今のインターネットは、絞り込みの技術や!

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