【鎌倉殿の13人・第33回】頼家、あまりに若く潰えた才能

鎌倉殿の13人の第33回ではついに2代目将軍・頼家がトウにやられて退場しました。頼家は暴君な一面もありましたが、御家人間の権力闘争に巻き込まれながらもがく一人の若者でもありました。
この記事では鎌倉殿の13人のドラマ内での頼家の軌跡を振り返ると共に追悼としたいと思います。

頼家の取り組んだ3つの改革とその成果

・御家人の所領の再分配
頼家は比企や北条などの有力御家人の所領を中小御家人へと再分配していました。それまで所領は先祖代々の相続と戦による武功によって獲得するものでしたが、奥州討伐を終えて日本を統一すると中小の御家人たちは武功で新たな土地を獲得することが不可能になったため格差が固定化される懸念がありました。そこで中小御家人の救済のために土地の再分配の必要が生じたのですが、これは有力御家人の離反を招いた一方で頼家の改革の恩恵を受けたはずの中小御家人も北条家を打倒するために頼家の味方にはなりませんでした。頼家自身も鎌倉殿になったときに目立った敵がおらず示せる武功がなかった人ではあるのでシンパシーを感じていたのかもしれませんが、報われない結果となってしまいました。
・近習を中心とした世代交代
鎌倉幕府の立ち上げに力を貸した古参の御家人たちの多くは文字の読み書きに不自由しているため戦乱のない時代での為政者には向いておらず、一定以上の教養のある北条時政・比企能員も「イエ」の論理でしか物事を考えられず鎌倉全体のために働こうとしませんでした。
家よりも鎌倉全体のことを考えられるのは義時の世代以降で、頼家が鎌倉殿を中心とした体制を築くのであれば若い世代を登用することは必須でした。そこで近習として若手の御家人6人を登用したものの、経験もなく適切なメンターもいない中で大した彼らは実務はこなせずすぐに機能不全になってしまい、改革は不発に終わりました。
しかし、旧体制の象徴である「13人の合議制」の方も比企と北条間での政治争いに終始し次々と脱落者が出ていたので、古参の御家人たちに任せていてもどうしようもなかったのは事実です。
・朝廷との関係の改善
頼朝と政子は長女の大姫の入内のときに朝廷よりかなり厳しい扱いを受けていました。それでも頼朝は朝廷と密接な関係を築こうとしてきましたが結局叶わずに病死しました。頼家は頼朝の路線を引き継ぎ蹴鞠などの京文化を通じて朝廷との交流を図っていましたが、これは「頼朝を超える」ために頼朝の果たせなかった朝廷攻略をしようとしたのだと思います。
馬と弓ではなく蹴鞠に熱中する頼家の姿に坂東武者からは冷ややかな目を向けていましたが、(利用するためのリップサービスもあるとはいえ)後鳥羽上皇からは頼家の幽閉に対して「源氏は我が忠臣、その棟梁の座を坂東の田舎武者に良いようにされるなどもってのほか」と言わせたり、幽閉中も内通していたりするなど関係はかなり密接になっていました。

頼家の才覚と努力

頼家の3つの改革はそれを押し通すだけのカリスマと後ろ盾、経験がなかっただけでそれぞれ理には適っていました。それだけではなく頼家の政治の才能の片鱗は随所に出ていました。
富士の巻狩りでは曾我兄弟の謀反という不測の事態に対しても適切な対処をして鎌倉の崩壊を防ぎましたし、伊豆に幽閉された後は状況が十分に分からない中で北条の者と面会を謝絶した後に細かい注文を付けることで三浦や畠山などの北条に対して謀反を起こす可能性のある御家人に揺さぶりをかけました。結局、御家人の切り崩しには失敗し朝廷に宣旨を出そうとしたところで義時に暗殺されましたが、御家人の中でも家の格が高くない北条が先代の鎌倉殿を無理やり幽閉して誅殺した事実は後に禍根を残しますし、この後の混乱を考えると一定の成果を上げたと言えるでしょう。北条が頼家を誅殺しようとしたとき、幼馴染の泰時は頼家に逃げるように言いましたが、頼家はそれを拒否しました。このときの頼家は自分の命に代えてでも北条を滅ぼしたいという意志があったように思います。
また、頼家は努力も欠かさない人でもありました。巻狩りのときには武勇の才を見せていた泰時に対し、御家人たちの段取りがなければ鹿一匹打ち取れない頼家でしたが、修善寺で襲撃を受けた際には病み上がりの状態でありながら、泰時が一瞬で組み伏せられた善児に対して互角の戦いをし致命傷となる一撃を加えていました。富士の巻狩りでは「いつか弓の達人になる」と泰時に語っていましたが、そのときの気持ちを忘れずにまじめに狩りで鍛錬を積んで来たのだと思いますし(狩りは浮気の口実にもなっていましたが)、幽閉後酒に溺れながらも体がなまらないように腐らずに鍛錬を続けていたのだと思います。蹴鞠に興じる姿だけでなく、こうした姿を見て頼家を評価してついていきたいと思う御家人がいたらと思わずにはいられません。

頼家の弱み~若さと潔癖さ~

頼家が最初に取り組んだ取り組みが土地の裁定と若手の登用だったのがよくありませんでした。土地を公平に納得のいく形で処分するためにはその土地の歴史や過去の判例に精通している必要があり、単純な賢さ以上に経験が必要となります。若手の登用についても同じです。頼家自身に登用した人をコーチングできる程度の経験と技量がなければせっかくの人材も使いこないでしょう・
頼家は自分の強みではなく弱みばかりが前面に出る、”経験”が重要な仕事にばかり取りかかってしまって最初の一歩に躓きました。頼家の改革に不満を持つ有力な御家人は喜んでその失敗を悪し様に広めたでしょう。
頼家が改革に成功するためには大江のような実務者や義時や梶原などの家の論理に縛られない人と結びつく必要がありました。ただそうはなりませんでした。大江は元々頼家の能力をあまり評価していなかったので関係を築くことができず、北条家も含めた各所の利益も踏まえた義時の行動や言葉巧みに頼家をコントロールしようとするような梶原の行動に反発して二人を遠ざけました。
頼家は若さゆえの潔癖さによって頼家を大切に思っている御家人のちょっとした粗が許せなくなっていたように見えます。その結果、比企のような頼家のことを政治の駒としか思っていないのを隠そうとしないような人ばかりが周囲に残っていたのですから皮肉なものです。
頼家には泰時にとっての義時のように自分にとっては受け入れがたいことを言いつつも自力では排除できず自分の若さや弱みを見守ってくれる存在が必要だったと思います。そしてそれができるのは頼朝しかいなかったので頼朝のあまりに早い死が悔やまれるところではあります。

まとめ

頼家は若さも粗相も目立つ人ではありましたが、才覚があり人一倍努力をする人でもありました。このような人が力をほとんど発揮できずになくなってしまったことは残念でなりません。
時代は実朝・北条へと移っていきますが早く平和な世が作中にも訪れて欲しいと切に祈ります。

宣伝

土曜日の大河の再放送の時間に同時視聴のスペースをやっています。よろしければTwitterをフォローして視聴していただけますと幸いです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?