山本賢治という人間へのエゴ

「ヤクザと家族」を見るうちに生まれた、山本賢治という人間に対して抱いてしまったデカいエゴを、私は今ここに捨てたくてこの文章を書いている。

私はこの前、映画「すばらしき世界」を見たのだが、見た直後、私は山本賢治のことしか考えられなくなってしまった。そして、賢治に対して抱いていた感情があまりにも大きくなってしまっていることに気がついたのである。

⚠️ここからは「すばらしき世界」そして「ヤクザと家族」の内容について言及するため、ネタバレを含みます。

今回は山本賢治のことを主に書きたいので上記で触れた「すばらしき世界」については深く書くつもりはないが、大まかなあらすじは以下の通りである。

「すばらしき世界」は2021年に公開された、役所広司さんが主演の映画である。幼い頃母親に捨てられ、施設で育った三上(役所広司)は、10代の頃から組に入り、十犯六入の元ヤクザである。カッとなりやすい性格であり、持病のせいもあって自分が間違っていると思ったらすぐに手が出てしまう人間である。そんな三上が13年の刑期を終え社会に出たのち更生していく姿を描いたストーリーだ。

ここからは、「ヤクザと家族」の主人公、山本賢治(綾野剛)についての話をしたい。山本賢治の人生は主に以下の通りである。
(細かい内容は省いているので本編を見てない人は本編を見てください。)(命令)

1999年、19歳の賢治は父親を亡くし、見るからに家族がいない。弟分のような仲間二人と街を彷徨いている賢治はずっと、どこか寂しげな、何かを諦めたような目をしている。柴咲組の親父(舘ひろし)に出会うまでは。
2005年、25歳の賢治は親父の養子縁組として柴咲組に入会した賢治は19歳の頃とは比べ物にならない表情を見せる。守るべきもの、信じられるものがあり、自分が生きている価値があると確信している表情だ。覚悟が決まり、この組で生きていくと決めた顔をしている。そしてこの年、賢治は由香と運命の出会いを果たす。初めは賢治の一方的な好意だったが、次第に惹かれ合う。しかし賢治は弟分であった仲間を殺された相手を刺した中村(北村有起哉)の罪を身代わりになって被り、罰を受けることを決意する。その夜、賢治は由香と夜の関係を結んだ。
2019年、賢治は刑務所から出所して、柴咲組に戻ろうとしたが組は完全に廃れていた。それに加え親父は大病をして入院中である。賢治が帰る場所はあまりにも寂しい場所になっていたのだ。時代も社会も文明も、賢治が刑務所の中にいた間に大きく進んでおり、14年間外との関係を絶っていたヤクザの賢治にとって、2019年はあまりにも生きづらい場所だった。賢治は足を洗うことを決意し由香のもとを尋ねると、14歳の自分の娘がいることがわかる。賢治はなんとかして仕事につき”普通の”生活を送る。しかしそこで待ち受けていたのは賢治の”元ヤクザ”そして”前科者”という経歴による家族との平和な日常の崩壊であった。

私は、三上も賢治もヤクザの道に進むしかなかったのだと思っている。
そしてこれは映画をみた多くの人が思っていることだろうと思う。二人とも幼少期から血のつながった家族からの十分な愛情を受けてこなかった。だからこそヤクザの組の中の血のつながらない親父に頼るしかなかった。しかし、結果として彼らはそれで罪を犯し服役を終え、足を洗ったとしても、”元ヤクザ”の経歴自体が自らの首を絞めることになる。

私は、元ヤクザが一般社会に馴染むことには多くの犠牲や我慢、そして苦しみがあるというのをありありと描いているこの作品たちをどういった気持ちで受け取ればいいのかずっとわからないのである。賢治も三上も映画のラストでは”死ぬ”からだ。作品は当たり前に主人公を中心に描かれるため、主人公に没入してしまうのは仕方ないのかもしれないが、果たして私の主人公の見方、受け止め方が正しいのか、とモヤモヤしてしまうのだ。
もちろん賢治に同情するし、可哀想だった、やるせないという気持ちは存在する。だが、賢治が家族への愛一つだけを抱えて死んでいったことを私はどうしても賢治の”結末”として受け入れたくないという気持ちが同時に存在するのだ。それは、彼にはいくらでも生きていく時間も体もあった、生きていく環境だって、探せばあった、そう思いたいだけなのかもしれない。
しかし私は、賢治があの時細野に刺されて海に落ちた時、賢治だって”普通の”人生を歩む権利はあったはずで、一個のきっかけさえ違ったらこれが彼の結末になることはなかったのではないかと直感的に考えてしまったのだ。

これが完全なる私のエゴであることはわかっている。
当たり前のことだが、賢治の幸せは賢治にしかわからない。

主題歌のFAMILIAでは
「走馬灯に映るすべての記憶があなたで埋め尽くされたなら、もう思い残すことはない」
という歌詞がある。

ヤクザにしか生きる道がなかった、それはそうかもしれない。しかし、世の中はそんなに表裏で解決できるものじゃないと私は信じたい。映画として結末への物語を見届けるしかない私には、正直二人の姿、生涯が、あまりにも苦しかったのだ。三上も賢治も、”救われなかったかもしれないが、その中でも幸せがあった”という描かれ方が、辛くて仕方なかった。勿論両作品ともとても良い作品であり、大好きな作品なのだが、賢治の人生も、三上の人生も、”ただそうするしかなかった”と受け入れたくないというエゴは私の中からずっと消えないのだ。
自分でも自分のこの気持ちとどう接すれば良いのかわからなかった。しかしただ一つ明確なのは、賢治も三上も多かれ少なかれ幸せだった瞬間があったのは間違いない、それが今の私にとっての大きな救いであることだ。

私はいつかこの二人への感情がエゴではなく、純粋な愛となることを祈りながら、心の中に燻るエゴをここに置いていきたいと思う。


2024.03.21



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