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「視線」私の大山菜々子論

私が大山さんの絵に出逢ったのは多摩美2年の時だった。藝祭で彼女は少年展をやっていた。

ハイレベルな画力で繰り広げられる展示に驚いたし、してやられたとも思ったのが最初の印象だった。

その後、私の方から、二人展、少年展にお誘いをして、吉祥寺で最初の少年展を開く事になった。

その時お迎えしたのが、学ランの少年、「視線」だった。

私は大山さんではないし、私の体験でしか彼女の絵を語る事は出来ない。
私が「視線」を見て思うのは、普遍的な不安感だ。

私は小学生の時に母が流産をしたり、不安定な家庭に育った。又思春期を迎えて将来について考えなくてはならず、あまり薔薇色ではなさそうな人生に警戒していた。

「視線」の少年の中に、その時の自分を見る。

実際大人になって変わったことと言えば不安を受け入れた事ぐらいなのだが、大山さんの絵に、純粋な不安・死を感じて、自分を発見したような気になるのはおこがましいだろうか。

大人になると言う事は不動の価値観を得る事ではない。

私が影響を受けた作品に、トルキーンの「指輪物語」がある。物語の最後に、主人公は遂に指輪の誘惑に負けてしまう。それを自覚するのが、多分大人になると言う事なのだろう。

その罪から目を背けて自分を全き人間だと思う人は幸せだが、危険だ。

大山さんは、絵の中で、思春期の喪失に誠実に向き合い、その絶望を繰り返し、繰り返し、絵でなぞる。
私は身勝手にもその中に、自分の中の不安を見出し、共感する事で少し救われた気になる。

実際、大山さんの絵の中で、希望の船は燃えてしまい、輝かしい筈の旅立ちは、いく先すら持っていない。

死の不安は古今の芸術作品に見られるように性的要素を色濃く映し出す。大山さんの絵は、必然的に官能であり、高度な精神的遣り取りの結実である。

大山さんには、大変な苦痛を伴うかも知れないけれども、これからも、自分の中の少年達を描いて欲しいと思うのだ。

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