さばかん

雨が降る中帰宅したわたしは,すぐに米を研ぎ,炊飯器に入れ,それに張り付いている黄色いスイッチを押した.スイッチの上には少しほこりが積もっていたが,そんなことはどうでもよかった.むしろ今思い返すまで,そんなことには気づかなかった.それから,米が入った白いオブジェから蒸気が吹き上がるのを,幾らかの間見つめていた.普通,立ち上る白い蒸気なんかをずっと眺めていたら,きっと死んだ両親の葬式とか,初めて雪が降った朝の,冷たい空気を思い出したりするんじゃないかと思う.でもわたしの頭の中には,そういった繊細な現実から切り取られた風景は,一切写っていなかった.なんでかは全くわからないんだけど,今日のわたしの頭の中には,さばかんが敷き詰められていた.金色の円形のアルミと,それを覆う浅い青色のパッケージ.洋風な色使いの中に,日本的なタッチのさばの絵が力強く描かれている.そしてそんなさばかん達が,わたしの頭を埋め尽くしている.同じ空間座標に,2つのさばかんが重なって存在している.いや,2つどころか,3つ4つ,数えられないほどのさばかん幻想が頭皮の裏側で重複している.あまりに自己主張が強く,まぶたの裏まで焼けうつりしそうだ.どのぐらい時間がたったのかは全然わからないけど,わたしの頭はいつの間にか,とりあえず本物のさばかんを見るべきだという判断を下していた.わたしはいつの間にか台所にいて,湿気った臭を吐き出す棚を漁っていた.さばかんは意外にいい値段するから,貧乏性なわたしは買ってもなかなか手がつけられず,それがどこに行ったのかもわからなくなるくらい放置してしまうのだ.蛍光灯の情けない光が少しだけ差し込む,暗く湿気った棚の中を,わたしはゾウリムシのように漁っていた.邪魔なトマト缶や料理酒を,なんのためらいもなく,雑草を処理するように壁に向かって放り投げていた.ついには,棚の中身をすべて外へ放り出していた.それでも,そこにはさばかんはなかった.そんなわけがないんだ.冷静な判断ができていないわたしは,頭をかきむしり,近くにあったツナ缶をどこかに叩きつけた後,必ずそこにさばかんがあるはずだと,棚の中へ潜り込んだ.だが,シンクから下水道へ水を渡すパイプがわたしの邪魔をしている.だからわたしはそれを蹴り壊した.後から確認してわかったが,足の親指と中指の爪が割れていた.まぁ,そうこうして,わたしはさばかんを求めて台所の棚に侵入した.梅雨の草むらのような湿り気と,山奥の沼地のような冷気.わたしは今,

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