「ナナメの夕暮れ」若林正恭

 前作の「表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬」が面白かったので、本屋さんで見かけたこの新作を手に取った。(前作も読み返して近いうちに書きたい。)解説に朝井リョウの名前があったことも惹かれた理由のひとつだけど、エッセイというものの面白さに若林作品を通じて気付いた。エッセイを読んでいると人の頭の中を覗いているような気持ちになる。もちろん、作者の頭の中に渦巻いている思考が言語化され、取捨選択され、さらに脚色されてようやくこの紙に印字されていることも分かってはいるけど、それも含めて人間性を感じられるところが好きだ。

 ナナメの人間は、真っ直ぐな人間に憧れる。世界をナナメにしか見れないから、世界を真っ直ぐに見ている人が羨ましい。若林は隣にいるピンクの相方みたいな生き方に憧れながらも、ナナメに生きるということに自分なりの倫理を持っている感じがした。

 他人の生き方に憧れることはよくあって、こういうときあの人ならどうするかな?と考え、そこで出た答えを拝借して、自分の人生で実践してみることがある。でも、思い描いていた結果はほとんどの場合得られない。私はあの人にはなれないし、あの人の答えは私の人生では最適解になり得なかった。結局、自分の人生の答えは自分で見つけるしかないんだなあと思い知る。UVERworldのタクヤも「他の誰かの正解は僕の答えじゃない」って言ってた。

 就活を通して、自分がどんな人間か考えるようになった。自分という人間が、21年間付き合っている自分にすら分からないなら、まだ出会って数分の面接官にも分からなくて当然だと思った。だから、説明しなければいけない。でも、自分ってどんな人間なんだ?

 結局、面接で紹介できる自分という人間は自分の本質を突いていなかった。IT業界に入ってDXを推進したいですと言いながら、紙媒体の小説を好んで読むような人間だ。内心Kindleなんか使ってたまるかと思っている。でも、そんなことは言えない。大学に入る前から情報社会に疲弊していたから、予備校の古文の先生に平安時代が羨ましいですと言ったら、真顔でなんで?と返された。目に入る情報は最小限でいいし、知らなくていいことは知りたくない。毎日その日の天気のことと好きな人のことくらいだけを気にして、見栄のためでも世間体のためでもなく自分のために学び、和歌でも詠んでいたい。それか、日向ぼっこと昼寝のことだけを考えていられる猫にでもなりたい。将来の夢は大きな犬を飼うことくらいしか思いつかない。

 ナナメの人間は前に倣えができない。みんなは前に倣っている中で自分だけナナメを向いている。どうして、できないんだろう。ずっとその疑問を自分に抱いている。若林は人生をかけてその疑問と逃げることなく対峙してきたんだと思う。そうやって、自分なりの倫理を築いてきた。私は若林という人間が好きだけど、きっと彼のそういうところが好きなんだ。ナナメの夕暮れは、それはそれでそれなりに綺麗なのかもしれないと思わせてくれた。

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