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多様性とマイノリティ

 LGBTを理解しようだの、夫婦選択的別姓を理解しようだの、今世の中は多様性の風が吹き始めていると感じる。

 実際賛成派もいれば反対派もいるから採用されないものも多いけど、人々が幸せに生きていくためには必要な場合もあると感じる。夫婦選択的別姓やLGBTは必ずしも理解しなければならないものなのだろうか。

 私にはマイノリティと呼ばれる少数的な部分がある。
知って欲しいと言う思いはあるが、別に理解して欲しいなどと思わない。知り合いのマイノリティ当事者に聞いた話だが、LGBT理解推進法も当事者からすれば無理に進めてほしくないと思っているそうだ。理解するのも多様性だし、理解できないって思うことも多様性のひとつ。無理にマイノリティへの理解を押し進めること自体が本来あるべき多様性の姿からは真逆に向かっているのではないだろうか、私はそんな風に感じている。

 今回はLGBTや夫婦選択的別姓を例に出したが、どんなことでもどんなものでもこれらは言えるだろう。子供がなんのスポーツしてるの?と質問された時、サッカーをしていると言えばおーという反応や知っている知識の中で質問をしてくることが多いだろう。逆に、モルックやセパタクローをしているといえば、何それ?とそれらのスポーツを知りたいが故に気軽に質問してくるだろう。マイノリティや多様性なんかも同じだ。気になれば調べたり聞いたりして良いのだ。そのマイノリティについて知りもしないうちに決めつけられたり、勝手な想像で話を進めていっていたりする。これが今の日本の問題視されているマイノリティに対する対応だ。

 ある物事を進めていく時に、本来進んで欲しい方向とは真逆に進んでしまう場合がある。そんなとき事の本質を理解していればそのようなことはそうそう起きないだろう。

今後の多様性のあり方など私にはわからない。LGBTや夫婦選択的別姓、その他のマイノリティは初めは珍しいが故に驚かれたり無意味な批判をされたりすることが多くあると言うが、理解されたり推進されたりするのは時間の問題だろう。何度も言うように多様性という観点から見れば無理に押し進める必要もない。
 マイノリティへの無意味な批判をする、つまり多様性に対する反発を起こすならば事の本質を知った上で批判、議論しなければならないだろう。




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