桶狭間の戦い(前篇)-戦死塚からみた戦いの様相-
1月8日(日)にスタートしたNHK大河ドラマ『どうする家康』では、有名な「桶狭間の戦い」が描かれました。この戦いでも、多数の将兵が戦死したとみられ、その亡骸を埋葬したと伝えられる戦死塚も複数存在します。本稿では、室井康成著『日本の戦死塚-増補版 首塚・胴塚・千人塚』に掲載した戦死塚一覧の中から、この戦いに関わる戦死塚とその伝承を紹介し、ささやかな考察を試みます。
■発端はよくある境界争い
永禄3年(1560)5月19日、駿河・遠江両国(静岡県中西部)の守護大名・今川義元は、出陣先の尾張国桶狭間(愛知県名古屋市緑区と豊明市の境界域)において、清洲城主・織田信長に直率された部隊に襲撃され、麾下の多くの将兵とともに戦死した。享年42歳。世に名高い「桶狭間の戦い」であるが、正確にわかっている事実は、以上である。
だが「桶狭間」の名は、勝者である信長の軍事的天才性を示す記号として、その後一人歩きをはじめた。なぜ小勢の織田軍が、10倍以上の兵力を擁する今川軍に勝利し、しかも大将・義元を討ち取ることができたのか。この疑問を限られた史料に依拠し、理屈どおりに説明するのは至難の業である。
ゆえに後世の人々が、それが信長の計算し尽された乾坤一擲の奇襲作戦であったと考えたくなるのも、情においては理解できる。しかし現段階の研究では、信長の勝因が奇襲作戦にあったとする説は旗色がすこぶる悪い。後述するように、私もよく知られた巷説は事実ではないと考えている。
そもそも桶狭間の戦いの意義は、今川・織田の支配領域が重なるグレーゾーンの解消であったとみられる。つまり、織田方であった鳴海城(愛知県名古屋市緑区鳴海町)・大高城(同市緑区大高町)・沓掛城(愛知県豊明市沓掛町)の3城がそっくり今川方へと寝返ったことを受け、これを信長が奪い返そうとしたのが事の発端であった。
とくに大高・鳴海の両城は、今川から見れば対織田戦略の最前線基地である。そのため両城には指揮官として今川方の有力部将が送り込まれていた。時の大高城将は鵜殿長照、鳴海城将は岡部元綱である。
これに対し信長は、ただちに反攻に出た。まず、鳴海城には丹下・善照寺・中島の3砦を、また大高城には鷲津・丸根の2砦を新造し(他にもう一つ砦を構築したとの説あり)、両城の糧道を遮断した。つまり、城兵を干殺しにする算段である。この事態は、当然のことながら今川方に何らかの対応を促すことになる。それが鳴海・大高両城への補給と、その周囲に築かれた織田方砦群の一掃であった。
桶狭間の戦いには、義元による「天下取りのための西上作戦」を、その目前で信長が粉砕したというイメージが付きまとうが、これは先行研究でほぼ否定されている。
歴史学者の本多隆成氏は、この時の今川軍の目的を①三河支配の安定化、②鳴海城・大高城の確保、③戦況如何による清洲城での信長との直接対決の3点が考えられるとし、どれか1点に絞る必要はないとの見方を示している[本多 2022]。首肯できる所説だが、私は第一義的には、上記②に当たる織田方砦の殲滅と鳴海・大高両城の救済がその目的であったと考えている。言うまでもなく、②の達成は①の課題解決にも直結する。そのため②こそ、今次の軍事行動の最大の目的だったと思う。
複数の味方の軍事拠点の救援と、敵方の軍事施設への攻撃を同時に実行するには、今川義元としても、これまでの合戦のように、配下の一部将を出張らせるのでは喧嘩にならない。そのためには、今川領内の国衆・豪族を挙げての「大量動員」による大軍勢の編成が必要であった。だからこそ、大人数を糾合する「依代」として義元自身の出馬が不可欠であったのであろう。
■戦いの推移
永禄3年(1560)5月12日、義元は住まいの駿府今川館(現在の駿府城付近=静岡市葵区駿府城公園)を出発、5日後の5月17日には前線にほど近い沓掛城に入城した。
ここで義元は、部下の松平元康(のちの徳川家康)に大高城の救援と、その周囲に築かれた砦の攻略を命じる。実際に元康は、翌18日に大高城への兵糧入れを実行、さらに翌19日には織田方の丸根砦を攻略した。同日、丸根砦の西方に築かれた織田方の鷲津砦も、今川の重臣・朝比奈泰朝の攻撃により陥落した。
緒戦の勝利を確認した義元は、沓掛城を出て大高道から東海道に入り、西進した。この時の義元の行動は、松平元康が救援を完了した大高城への移動が目的だったとする説もあるが[小和田 1989]、後述するように、私は別の見解をもっている。
他方、信長もまた、丸根・鷲津両砦への攻撃開始の注進を受けるや、手勢を率いて居城の清洲城(愛知県清須市朝日城屋敷)を出撃し、戦場へと向かった。この時の両軍の兵力は、織田方の史料である『信長公記』に曰く織田軍2000、今川軍4万5000だが、とくに今川軍の総数は、寡勢をもって大軍を打ち破った信長を美化するための「盛った数字」であろう。
いずれにせよ、兵力差では圧倒的に信長が不利な状況の中で戦端が開かれようとしていた。
■奇襲攻撃説の虚実
こうした状況の中で、なぜ信長は勝てたのか。長らく巷説として流布していたのが、件の奇襲攻撃説である。つまり信長は、今川方の鳴海城を取り巻くように設置した丹下砦を経て善照寺砦に入った後、そこから今川軍に気付かれないよう北方の山裾を「迂回」し、義元の本隊が休憩していた桶狭間付近の山に背後から登ると、眼下の今川本隊を目掛けて一気に山を駆け降り、義元を討ち取ったとするものである。
この奇襲攻撃説は、アカデミアにおいても長らく通説とされてきたが、これを信長の陪臣・太田牛一が著した『信長公記』の分析によって否定したのは歴史学者の藤本正行氏である。藤本氏はこの問題を、1982年(昭和57)に『歴史読本』に寄稿した論考「異説・桶狭間合戦」ではじめて提起し、その後、『信長の戦争-『信長公記』見る戦国軍事学』や『【信長の戦い①】桶狭間・信長の「奇襲神話」は嘘だった』などの著書において詳しく論証した。
藤本氏によると、信長軍による件の迂回奇襲説は、徳川時代初期の慶長15年(1610)に刊行されたとみられる小瀬甫庵の著書『信長記』が初出であるとし、「甫庵は、この記事の肝腎な部分(織田軍の進路=室井注)を、正確な情報によらず、自身で創作したと考えるべきなのである」と述べている。
そのうえで藤本氏は、『信長公記』の著者である太田牛一は、桶狭間の戦いに従軍した可能性もあるとし、『信長公記』こそ「現在知られている唯一の、当事者の手になる桶狭間合戦の戦闘記録」だと述べ、その信憑性の高さを評価している[藤本 2003]。要するに、『信長公記』の方には、迂回奇襲説とは異なる戦いの推移が書かれているのである。
私も、こと桶狭間の戦いに関しては『信長公記』がもっとも正確な史料だと思う。それは藤本氏も指摘しているように、『信長公記』が描く戦場の地理的・地形的特徴が実際のそれと合致する点が多いからである。仮に太田牛一自身は戦闘に参加していなかったとしても、参戦者からの「生」の情報を知り得る立場にあったことが窺えるほどのリアルな筆致だと言ってよい。
■今川軍の大敗、義元の戦死
信長の勝因が奇襲ではなかったとすると、実際の信長はどのように行動したのだろうか。『信長公記』によると、善照寺砦を出た織田軍は、そこから南の中島砦に移動している。
丘の上にある善照寺砦から、川の合流点に築かれた中島砦への道は一本の細い下り坂であるため、織田軍の移動は今川軍からは丸見えとなり、さらには自軍の人数や武装の様態もわかってしまう。それゆえ信長の家臣は、中島砦への移動は危険だとして強く諫止したが、信長はそれを振り切って全軍の移動を強行した。
『信長公記』の記述から、中島砦のすぐ東側、つまり信長の眼前に今川軍の「前軍」がいたと想定したのは、前述の藤本正行氏であり、これも今日では定説となっている。「前軍」は、桶狭間から西へと延びる山稜が切れるあたりに展開していたと思われる。
これを視認した信長は、この部隊の将兵が、つい先ほどまで大高城へ兵糧を入れ、丸根・鷲津の両砦を攻撃していたため疲れ切っているが、対して味方はまだ戦っていない「新手」のため勝機があると発言し、味方を鼓舞している。つまり信長は、眼前の敵軍を松平元康もしくは朝比奈泰朝の部隊だと判断したのだが、藤本氏によると、これは信長の勘違いであり、それはまごうことなき今川軍の「新手」であったという[藤本 2003]。
ついに信長は、この「前軍」を叩くべく中島砦を出て、彼らが布陣する正面の山裾へと駒を進めた。だが、そこで天候が急変し、にわかに暴風をともなう降雨となった。この時の状況を、『信長公記』は次のように伝えている。
「俄かに急雨、石氷を投げ打つ様に、敵の輔(つら)に打ち付くる。身方は後の方に降りかゝる。沓懸の到下の松の本に、二かい三かゐの楠の木、雨に東へ降り倒るゝ。余の事に、熱田大明神の神軍かと申し候なり。」
そして暴風雨が収まると、信長は「すは、かゝれかゝれ」(『信長公記』)と大音声で突撃命令を下した。桶狭間の戦いを描いた映像作品では、織田軍が雨の中を今川本陣に突入するシーンを目にすることがあるが、『信長公記』の記述を信じるならば、信長は、雨が上がったのを確認してから突撃を下知している。
かくして正面から織田軍の攻撃を受けた今川軍の「前軍」は、すぐに崩壊したようである。しかもその混乱は、ただちに後方に陣する義元の旗本へと波及した。以下に『信長公記』の記述をそのまま引用する。
「(今川軍は、織田軍が)黒煙立てゝ懸かるを見て、水をまくるが如く、後ろへくはつと崩れたり。弓、鉄砲、のぼり、さし物算を乱すに異ならず。今川義元の塗輿も捨て、くづれ逃れけり。」
義元の旗本衆は円陣になり、義元本人を護って防戦したようだが、織田軍と槍合わせを繰り返すうちに消耗してゆき、ついに義元は、信長の小姓・毛利新介に討たれ、首を取られた。その場で義元の首級を見た信長は「御満足斜めならず」といった表情を浮かべ、その日のうちに清洲城へと帰陣した(『信長公記』)。
以上が、藤本氏の『信長公記』の分析により明らかになった桶狭間の戦いの実相の概略である。これは今日、従前の「奇襲攻撃説」「迂回奇襲説」に対し「正面攻撃説」と呼ぶのが一般化している。
NHKの大河ドラマでも、桶狭間の戦いの場面は、昭和63年(1988)放送の『武田信玄』までは「奇襲攻撃説」で描かれていたが、平成4年(1991)放送の『信長~KING OF ZIPANGU』からは「正面攻撃説」が採用されるようになり、現在に至っている。ただし先日放送された『どうする家康』では、このあたりの事情がわかる描写はなかったが・・・
■義元本陣の位置
「正面攻撃説」が正しいとすると、信長の勝因がますますわからなくなる。そのため、これまでさまざまな議論が繰り返されてきた。
最近では、歴史学者の服部英雄氏が、信長軍が突撃する直前に起きた暴風雨を、『信長公記』の「俄かに急雨、石氷を投げ打つ様に」という記述などから、この時期特有の発達した積乱雲がもたらす氷・雹を含むものであったと解釈し、これを今川軍の将兵がまともにかぶったことにより低体温症となり、鉄砲も使い物にならなくなった一方、織田軍は中島砦にいたために、この冷雨を避けることができ、鉄砲も将兵の体力も温存することができたとの見解を示している[服部 2021]。
つまり、体力が落ちた今川軍に、体力を維持し得た織田軍が攻めかかったがゆえの織田軍の勝利という見方で、前述の本多隆成氏も、この服部説は「かなり説得力のある新説」[本多 2022]と評価している。
上述の服部説が示された論考には、桶狭間の戦いの帰趨に水軍の動向が深く関わっていた蓋然性が提起されるなど、先行研究ではほとんど等閑に付されていた事柄に注意が払われており、魅力的な内容ではあるが、件の降雹・冷雨が勝敗を左右したとする所説には、私は少しく疑問を感じる。というのも、『信長公記』を読む限り、例の暴風雨は、信長が今川軍の「前軍」を攻撃すべく中島砦を出た後に起きているからで、仮にそれが降雹・冷雨であったとしても、その被害は織田軍にも及んでいたと考えるからである。
そうなると、信長の勝利/義元の敗北は、一次史料に依る限り「偶然」であったとしか言いようがないのだが、あえてその理由を探るとすれば、それは当日の義元本陣の位置を推定するしかない、と私は思う。
前述したとおり、この日の義元の行軍の目的は、沓掛城から大高城への移動であったとする説があるが、『信長公記』にはその根拠となる記述はない。あるのは「御敵今川義元は、四万五千引率し、おけはざま山に、人馬の息を休めこれあり」との記述である。つまり、義元以下の今川本隊がどこへ向かっていたのかは不明ながら、桶狭間付近で行軍を停止し、休息していたことは窺える。
従来、この「桶狭間」は、その語感から谷底の隘路が連想されるため、そこで休息中の義元を、山の上から織田軍が急襲したというのが件の「(迂回)奇襲攻撃説」である。だが上述したように、『信長公記』には「おけはざま山」とあることから、実際には義元の本陣は谷間ではなく、逆に山の上にあったと考えられるため、これも信長の「(迂回)奇襲攻撃説」が成立し得ない根拠の一つとされてきた。
この点は早くから先行研究でも指摘されており、すでに歴史学者の小島広次氏が昭和41年(1966)の段階で、「おけはざま山」の場所を愛知県名古屋市緑区桶狭間北3-504にある標高64.7メートルの小丘に比定した。その根拠は、徳川家康(松平元康)の九男で尾張藩の祖・徳川義直が編纂を命じた『成功記』にある「桶峡之山ノ北ニ陣ス」や、尾張藩の家老・山澄英龍が元禄年間に編纂した『桶峡合戦記』の「桶峡山ノ北ノ松原」など、徳川時代初期の文献に出てくる記述であり、これが広く知られるようになったのは、おそらく歴史学者の小和田哲男氏が、著書でこの小島説を追認したことが契機であろう[小和田 1989]。
NHKの大河ドラマでも、平成18年(2006)に小和田氏が時代考証を担当した『功名が辻』以降、義元の本陣は「桶狭間山」と説明されることが多くなった。また現地にも、ここが義元本陣であったことを示す記念碑が建てられている。だが以下に述べるように、この記念碑は、未確定な史実の既成事実化といえる。
小和田氏も疑義を示しているのだが、「おけはざま山」が固有名詞だったのか、はたまた単に「桶狭間の山」といった程度のものだったのかは今日不明であり、議論の余地がある。たとえば藤本正行氏は、これが固有名詞だった可能性は否定しないものの、「桶狭間山は一地点ではなく、一地域、つまり中嶋砦の東側の丘陵一帯をさしていると思う」との見解を示している[藤本 2008]。
また、桶狭間古戦場の地理的特徴を検討した歴史学者の黒嶋敏氏は、桶狭間一帯が3つの小河川の源流をなす境界領域に位置することに注目し、「このような地名を、ピンポイントな場所として落とし込むのは難しい」と述べ、これが固有名詞ではなく広域地名だったとの見解を披瀝している[黒嶋 2022]。
私も、「おけはざま山」=広域地名説に同意する。具体的には、それは少なくとも小島氏や小和田氏が想定した標高64.7メートル地点の小丘を指すものではなかったと思う。
理由は2つあり、1つ目は、ここから信長と今川軍の「前軍」が衝突した地点は3キロメートル近く離れており、これが以下に指摘する『信長公記』の記述と合致しないと考えるからである。2つ目は、中島砦と標高64.7メートル地点の麓とを結ぶ東海道は、信長から見ると長い上り坂となっており、しかも約3キロメートルもの道のりを、重い軍装を身にまとった織田軍が、歩行立ちのまま戦いつつ進撃するのは困難だったと思われ、その間に義元も沓掛城方面へ後退できたのではないかと考えるからである。
その『信長公記』には、信長が善照寺砦に入ったのを確認した織田家臣の佐々隼人正(佐々成政の兄)と千秋四郎が、手勢300ばかりを率いて今川軍に攻撃を仕掛け、なかば玉砕したとする記述がある。要するに、血気にはやった若武者が、信長の下知を待たずに抜け駆けし、返り討ちにあったのである。ちなみに、この抜け駆けから生還した武将の一人に前田利家がいた。
ここから窺えるのは、藤本氏が想定した「前軍」のほかにも、すでに善照寺砦の攻撃に取りかかろうとしていた今川軍の別部隊が存在した可能性であるが、問題は次の記述である。
義元は、この佐々・千秋らの不意の来襲を自軍が殲滅したことを受け、「是れを見て、『義元が戈先には、天魔鬼神も忍るべからず。心地よし』と、悦んで、緩々として謡をうたはせ、陣を居ゑられ候」とある。つまり「是れを見て」の主語が義元だとすれば、義元は、この小競り合いを直接視認できる地点に着陣していたのではないか。
そうだとすると、義元がいたのは広域地名としての「おけはざま山」の西端としか考えられない。
それは現在の地名でいうと名古屋市緑区曽根2丁目から同区四本木に掛けてのエリアである。現在、曽根2丁目に「神明社」という名の小さな神社があるが、そこが「おけはざま山」の山稜の突端に位置し、西側は低い崖のようになっている。ここから中島砦までは直線距離にして約400メートルと指呼の間である。ここであれば、中島砦は眼下に見下ろすことがでるだけでなく、善照寺砦も一望のもとに収められる。したがって、佐々・千秋らの抜け駆けも、手に取るように目視できたはずだ。
つまり、この神明社の付近こそ、桶狭間の戦い当日の義元本陣であったと私は考えるのだが、それはこの日の義元の軍事行動の目的が、小和田哲男氏の想定した大高城への移動ではなく、歴史学者の谷口克広氏が指摘するように、鳴海城を取り巻く中島・善照寺・丹下の3砦の攻略であったと考えるからである[谷口 2002]。
義元にしてみれば、すでに前日までに、丸根・鷲津の織田方2砦はすでに陥落していたため、本隊を前線に進めても敵に左脇腹を突かれる憂いはなく、残る3砦への攻撃に専念することができた。
おそらく、中島砦の正面に布陣した義元本隊を中心に、善照寺砦から大高城に至る南北の長い距離に、鶴翼の陣形に似た構えが完成しつつあったに違いない。いかに大軍とはいえ、これだけ広範囲に部隊を展開させていれば、相対的に義元本隊が手薄になってしまうのは、なかば必然であったろう。
そこに信長率いる織田軍の主力が出現したため、今川軍は、敵の移動や軍装のほどは視認できたものの、攻城態勢から迎撃態勢への転換が果たせなかった。だから、織田軍の襲撃からほどなくして崩れ去り、かつ義元本人も逃げる間もなく捕捉されたのではないか。
要するに、藤本正行氏がはじめて想定し、かつ今日通説となっている今川軍の「前軍」こそ、実は今川義元の本隊であったというのが私の見立てである。したがって、義元の戦没地もまた、ここからそう遠くない地点であったと私は思う。
■戦死塚が語る戦場の範囲
『信長公記』によると、信長は中島砦を出撃する直前、麾下の将兵に対し「分捕なすべからず、打捨てになすべし」と命じ、自身の功名よりも、目前の敵を追い散らすことに専心するよう言い聞かせている。
だが、開戦まもなく大将・義元を失い、逃げまわる今川軍に対しては、信長の下知も無効となったのであろう。『信長公記』には、義元戦死後の織田軍による熾烈な掃討戦にも多くの紙幅が充てられている。
「運の尽きたる験にや、おけはざまと云ふ所は、はざまくみて、深田足入れ、高みひきみ茂り、節所と云ふ事、限りなし。深田へ逃げ入る者は、所をさらずはいづりまはるを、若者ども追ひ付\/、二つ三つ宛、手々に頸をとり持ち、御前へ参り候。」
ここからも、今川軍の人的損害が甚大であったことが窺えるが、「爰にて御馬廻、御小姓衆歴々手負ひ死人員知れず」とする記述もあることから、戦闘の過程では織田軍にも多くの死傷者が出たものと想像される。
これら無数の戦死者の亡骸を集めて埋葬したと伝える戦死塚が、桶狭間古戦場の一帯に少なくとも3ヶ所確認できる[室井 2022]。つまり、①愛知県豊明市前後町仙人塚の「戦人塚」、②名古屋市緑区桶狭間北2丁目の「七ッ塚」、③愛知県大府市若草町の「首塚」である。ちなみに、今日「桶狭間古戦場伝説地」(愛知県豊明市栄町南舘)にある複数の墓碑群は、徳川時代を通じて建てられた記念碑様のものであることから[羽賀 1998]、戦死塚とはいえない。
注目したいのは、それぞれの戦死塚の位置である。まず①は、通説において桶狭間の戦いが行なわれ、かつ義元が戦死したとされる「桶狭間古戦場伝説地」から東海道を1.5キロメートルほど東に進んだ地点の北側の丘の上にある。こちらは、戦いの後、近くの曹源寺(愛知県豊明市栄町内山)の僧・快扇龍喜が、戦死した約2500名の将兵の亡骸を埋葬したものだと伝えられており、今日でも同寺において供養が執り行われている。
また、この塚は、信長の命により築かれたとする異説も語られている。ここではその真偽には立ち入らないが、これが信長による築造だったとみた場合(「後篇」で言及するが、その可能性はある)、その位置が、多くの人が往来する東海道から仰ぎ見る高台であることを勘案すると、ある種の戦勝記念物的な意味合いがあったと受け取ることも可能である。
問題は、この塚の位置から、沓掛城の方向へ逃げようとする今川軍にも、容赦のない掃討戦が行なわれた蓋然性が考えられることだ。
②は、上述の「桶狭間古戦場伝説地」よりも西側、中島砦寄りの東海道から分かれて大府方面へと南下する街道のほど近くにある。「七ッ塚」という呼称からも窺えるように、以前は複数の戦死塚があったが、今日みられるのは、平成元年(1989)に行なわれた区画整理のさい1箇所に集約されたものである。この塚には、信長が住民に命じて築いたとする伝承がある。
また、不特定多数の戦死者を埋葬したとされる塚には怨霊譚が付随するケースが多いが[室井 2022]、この塚もご多分に漏れず、これを毀損した者には祟りがあるとされ、実際に死んだ者もいたと伝えられている。
③は、②の近くを通る街道をさらに5キロメートルほど南方に進んだ地点にある。ただし、ここでの被葬者は、桶狭間の戦い以前に織田氏と今川氏との間で行なわれた「石ヶ瀬川の戦い」の戦死者であるとする異説もあるため、これを桶狭間関連の戦死塚と即断することは難しいが、桶狭間の戦いの記憶が、その戦場からかなり離れた場所にも浸潤していることは留意しておきたい。
これら一連の戦死塚の位置(つまり戦死者の亡骸のちらばり具合)を概観すると、やはり戦闘は本稿で指摘したように、中島砦のすぐ東側の山裾ではじまり、義元戦死後に算を乱して東海道を後退した今川軍は、途中で沓掛城方向と大府方向の二手に分かれて敗走し、織田軍の追撃を受けて死人の山を築いたのではないかと思う。
今日、桶狭間一帯に残る複数の戦死塚は、戦場の範囲が通説よりも広かったこと、また主戦場がもう少し中島砦寄りであったことを物語っているような気がしてならない。
(後篇「今川義元および部将たちの首塚・胴塚」に続く)
【参考文献】
太田牛一著・桑田忠親校注『新訂・信長公記』(1997 新人物往来社)
小和田哲男 1989『桶狭間の戦い-信長会心の奇襲作戦』 学習研究社
黒嶋敏 2022『戦国の〈大敗〉古戦場を歩く-なぜ、そこは戦場になったの
か』 山川出版社
小島広次 1966『今川義元-日本の武将31』 人物往来社
谷口克広 2002『織田信長合戦全記録-桶狭間から本能寺まで』 中公新書
羽賀祥二 1998『史蹟論-19世紀日本の地域社会と歴史意識』 名古屋大学
出版会
服部英雄 2021「桶狭間合戦考」『名古屋城調査研究センター研究紀要』2
名古屋市名古屋城調査研究センター
藤本正行 1982「異説・桶狭間合戦」『歴史読本』27-9 新人物往来社
藤本正行 2003『信長の戦争-『信長公記』に見る戦国軍事学』 講談社学
術文庫
藤本正行 2008『【信長の戦い①】桶狭間・信長の「奇襲神話」は嘘だっ
た』 洋泉社新書
本多隆成 2022『徳川家康の決断-桶狭間から関ヶ原、大坂の陣まで10の選
択』 中公新書
室井康成 2022『日本の戦死塚-増補版 首塚・胴塚・千人塚』 角川ソフィ
ア文庫
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