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ことば、歌うように、踊るように

「馬鹿じゃないよ、僕は!」側頭部こめかみ辺りに親指を当て四指を勢いすぼめ首を横に振った。生成りの縄編セーターが端正な顔を一層引き立て、参加者の中でも目を引く存在だった彼、その声に聴者の何人かが振り向いた。覚えたての指文字をゆっくり口形に合わせ自己紹介をしようとした私に腹を立てたのは明らかだった。大人が子どもに笑顔で諭すようなやりようだと受け取られたに違いない。聾者の凝視するような眼の力に緊張と恥ずかしさで精一杯だった私にしても思いがけない反応だった―誤解、訂正されることのない誤解―その夜ひどく落ち込んで家に帰ったことを十数年経った今も覚えている。これが聾者との関わりの始まりだった。言葉が通じない、意思の疎通の困難さにまるで文化の異なる外国人と話しているように思ったこともしばしばだった。分かり合えないまま、有耶無耶にその場を取り繕う自分の不誠実さに嫌気がさしていた。手話通訳養成講座で教わったのは主に日本語対応手話、それだけでは日本語の概念を持たない高齢の聾者には通じない。通訳の場に呼ばれるたびに痛感させられたことだ。しかしほどなく特定の聾者と何度も会うようになり、子どもの頃の話や自分を可愛がってくれた祖父の存在、親戚の間でさえも一人前に扱ってもらえぬ、その腹立たしい思いなどを聞かされるようになった。彼らの生きてきた道には孤独と憐憫、生まれながらに負わされた生きづらさがいつも張り付くようにあったのだろう。

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聾者の身体から闊達に繰り出される言葉、いわゆる日本手話に魅了されるようになったのは、ごく自然の流れであったように思う。まるで舞踊から喚起される現象世界、空中に舞う指先の残像があまりに美しく、文字変換を待たずに私は声を失った。この視覚言語には文法も時制もある、強弱も抑揚も格も態も備わっている。彼らの表現は日々の生活の中から生まれ、その在りようを如実に語っていた。特に小さなコミュニティでは顕著だった。静寂のもとに交わされる情念は巻物がからめとられるように宙に描かれ、私の目から涙を引き出した。頭の中から思考するために必要な言葉が取り去られてゆくのを感じながら自由を味わっていた。

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親しくなった彼がガンを患って死んだ。生まれつきの全聾、その彼の告別式の日、私は柩の傍らに立って手話通訳をした。お別れの花を捧げながら参列者たちが口々に何か話しかけているさまを全聾の妻は空疎な面持ちで眺めていた。その時、一人の聴者が手話で感謝と祈りを柩に眠る彼に手向けたのだ。初めて妻の嗚咽が式場の静けさを破り、皆の涙を誘った。沈黙の向こうにあった彼女の悲しみが一度にあふれて押し返してきたようだった。生成り縄編みセーターの彼の誤解は解けないままだけれど、ちっとも構わない、それでいい。眉の動き、首の傾げ方、頬の膨らみが五線譜の上にのせられ、無音のメロディーが奏でられる。彼らの感性は豊かだった、歌うように踊るように。



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