【死してもなお、文化は生きる】

商社マンはロマンだ」という言葉があります。
それは、刺激的な言い方をすれば、僕が死んだ後、僕はどうやって生きれるか、だと思い一筆取らせて頂きました。

その前に、突然ですが先にちょっと料理の話をしても良いでしょうか?

インスタで料理のストーリーを上げると、「ていねいな暮らしだね」とリプを頂くことがあります。スパイスからカレーを作ったり、旬のお野菜やお肉を使ってお店の猿真似をしてみたり、魚を捌いて色合いの合う器に盛り付けたりしているからでしょうか。
ただ、内実は「ていねい」というような崇高なものではなく、スパイスからカレーを作れるようになったのは、留学先でカレーを作るには安く大量に買えるスパイスから作るしかなかった為、お店の真似を試みたのも外で食べると高いからいかに家で美味しくできるか考えた為であり、魚を捌いて和を感じること意識するのも、駐在先では刺身などは売っていなく自分で漁に出て、釣った魚を自分で捌くしかなかったという、ていねいからは程遠い荒々しく野暮ったい環境と理由があったからなのです。全ては一種の生存戦略でした。

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(友人母手作りのドライフルーツとパン。こういうのが「ていねい」)

ただ、こんな僕でも今年に入り私生活でも仕事でも「ていねいな暮らしとは何だろう」と考えるようになりました。

そもそも「ていねいな暮らし」って何なのでしょう。
普通に暮らしを送ることは「ていねいな暮らし」と呼べないのでしょうか?
けれども実際に「ていねいな暮らし」のイメージにはやっぱりどこか普通の生活とは何か違うものが付きまといますね。
世間一般の「ていねいな暮らし」のイメージは、こだわりを持って、手間をかけているといったイメージでしょうか。
ただ、僕の中ではそのイメージよりも、「ていねいな暮らし」とはその過程においてそこに「誰か(相手でも自分でも)を想う」があるかどうかだと考えています。

料理で言えば、例えば手間ですが鶏肉の無駄な脂をきちんと取り除くかどうか、たぶん食味に大きく影響はないのでしょうが、体に付きやすい質の悪い脂を健康でいて欲しい相手に食べてもらいたくないから取り除く、そういった思いを持てるか、手間をかけれるかどうかなのだと思います。外食ではどうしてもそこまで配慮されてないだろうから、大切な誰かに作る自分の料理くらいは、そういったものを食べてもらいたい、と丁寧にやっていきたいと思えるかどうかかと思います。

こうやって、一つ一つのことに誰かへの思いを持てることが「ていねいな暮らし」の一つなのではないかと感じています。
これは料理だけでなく、プレゼント選びや雑貨選びもそうだと思います。
物理的なものでなくて言葉選びや文章を書くこともそうだと思います。

誤解が無いよう先に謝っておきます(笑)

この点、自分で偉そうなことを言っておいて恐縮ですが、これまで僕も想定以上のプレッシャーなどで、気付いたら相手本意でない雑な自分勝手な判断に陥って周りを振り回してしまったこともありました。だからこそ今回お話を頂いて、この点について考えたとき、これからの二極化の時代は特に、そういう時こそ落ち着いて相手(本記事であれば読んで頂いている方)やコトを尊重し、気張らずに自然体で一つ一つ丁寧に日々を過ごすことが重要だなと改めて感じています。

さて、前置きがやたら長くなりましたが、上記をひっくるめてお仕事のお話をさせて頂きたいと思います。今更ですが僕は総合商社に勤務しており食料ビジネスのエリア代表者として現在、駐在をさせて頂いております。
食料に関わる様々な仕事に携わらせて頂く中で、だらだらと語った料理から学んだことに本質的に通ずるものがあると思い、先に取り留めの無いことを語らせてもらいました。

ごれ

(写真は僕の好きな奴隷解放のモニュメント像)


料理には、目の前の食材と調理に集中することで悩み事や心配事があっても心を無にして集中できるという利点があります。また料理を開始する前に完成形をイメージし、そのゴールに対してどういうプロセスを取っていくのか、たまには自分のアレンジを出していけるというのも料理の一つの醍醐味でありビジネスに共通する点であると考えています。
商社の仕事もきちんと先に大きな絵を描かずに、行き当たりばったりで仕事をすると、仕事に振り回されることになり、最終的に自分の意志の介在しない結果に行き着くこととなります。また、相手のことを考えなかったり、全体の調和(最終ゴールの不動)を考えずに自分流にアレンジすると目的からはずれた結果となってしまいます。

例えば、料理ではラムひき肉の料理には香味野菜のパクチーがベストマッチするのですが、パクチー特有の癖が苦手な人にはこれが合いません。でもパクチーなしでは羊の臭みが消えず食味の重さも残ってしまいます。この場合、パクチーを使う理由は上記の2点をクリアするためであるので、必ずしもパクチーを使う必要は無いのですがパクチーを使う理由の意味を考えていないとパクチー以外の選択肢がなかなか出てこなかったりします。
僕の場合は、(プロの方に教えて頂いたのですが)ミントで代用するようにしています。ミントはパクチーのような癖は無いものの、清涼感と肉に合う香味野菜同様の働きをしてくれるからです。
仕事でもゴール(清涼感、臭い消し)に対しての道順は必ずしも1つではないので、Aというルート(パクチー)が合わなければ、Bというルート(ミント)で攻めて目的を達成するなど一つの目的に対して手段は柔軟に変えて取り組むことが重要なのかと考えています。

これをより大きな視点から見てみると、お客さんに対して、どのように思いを馳せることが出来るのか、どれだけていねいにお客さんへの思いを持ち、手間を手間と考えずに取り組めるかが重要でないかと最近ではよく感じます。

あまり偉そうに語りたくは無いのですが、説得力を持たせる事例としてこれまでの僕のお仕事の一部を少しご紹介させて頂きます。僕の場合は、日本時代、農家の人に思いを馳せ面白いことをやりたいと考え抜いた結果、日本米をパリコレに出す企画を立ち上げパリコレに参画したり、微々たる数量しか輸入していなかったアメリカ米を香港市場で拡販し、今では香港の全アメリカ米の輸入量の大半を当社が請け負うほどの商売に育ってくれたりと、今振り返れば当時はよく分かっていなかったけど、これらの点を気に掛けて、関係各位に思いを馳せてていねいに取り組んだおかげで、上手くいったかなと思うことがあります。
逆にこの意識が無かった仕事はつまらなく、成果としても全く表れなかったなと振り返ります。

ぱりこれ

(パリコレに出展した日本米を用いたフランス流SUSHI)

ただ、こんなもの窺った見方をすれば、僕がやらなくても代わりの誰かがパリで日本米を流行らせようとしたかもしれないし、香港にアメリカ米の一大市場を作っていたかもしれません。だけれども、幸いにも実際にその取組に僕が携わらせてもらえ僕の実績として残すことができました。
実績が嬉しいのでなく、誤解を恐れずに言えば、そこにこれまでなかった文化を創れたことが素直に嬉しいと今でも感じています。
モノは壊れて無くなってしまうかもしれないですが、文化はなくならない。僕が死んだ後もその文化は生き続け、その文化の中で次の時代の人々は生きていく。ならば僕が生きた事実もその文化に触れれば感じられる。たとえ今のその文化から今後変容しようとも、僕がそこに種をまかなければ変容する文化自体がなかったんだなぁ、と感じることができるかもしれない。


商社はよく「ビジネスを作る」集団と言われていますが、個人的に心掛けているのは、ご想像の通り「文化を創る」ことです。仕事は自分がやらなくても誰かが似たようなものを作るかもしれない、けど文化は違う。この世界どこの文化をとっても、同じものはないのです。自分がその文化を創ることが出来たら、それは自分しかやりえなかったものなのです。
僕は今、自分の仕事を通じて、自分が生きた証を、この世に爪あとを、残そうと相変わらずもがいています。 それが「僕が死んだ後に僕はどうやって生きれるか」の答えだと思うからです。

最後に、ぼくはたまに周りの人から「文章よく書けるね」とか「よく言語化できるね」と言われることがあります。商社マン特有なのかもしれません。
けれども本当のところ、伝えたい気持ち、心にある思いなんてきちんと言葉に落としこめてないんだなぁと感じることが多々あります。メラビアン法則に従えば言語情報なんて7%しか伝わらないそうです。

だからこそ、言葉はそこまで有用でないから、料理や仕事を通して、心を込めて手間を掛けることで、目に見えないけど相手に自分の気持ちや感謝、愛を表現しようとしているのかもしれません。感情に言葉が追いつかないから、料理や仕事を通して表現したいのかもしれません。完璧の中に愛を見出しがちですが、感情と言葉がイコールになっていない事実をはじめ、本当はその不完全性のありのままの中にこそ、ていねいを通して愛(そして気持ちや感謝)は見つけられるものなのかもしれません。

仕事も一種の創作活動です。

自分の思いが形になる場だと思います。
芸術においてのカタルシス、僕にとってはプライベートでは料理、仕事では文化、皆さんにとっては何でしょう。

相手や商材のことをどこまで考えることができるか、その思いは自分のエゴでないのか、意見がぶつかりそうな時にも相手への思いをちゃんと持ち尊重できているか、それらを踏まえてより良い方向に向かうため自分だったらどう考え行動するか、公私共に強く自戒を込めて、原点に立ち返り、ひとつひとつ丁寧でも気張らずに自然体で向き合っていきたいですね。
就活生の方は、この点を意識して相手(会社・将来の自分含む)に思いを馳せることが出来れば、仕事に関しては良縁あるお仕事に辿り着くのでないかと、僭越ながらアドバイス申し上げます。コロナ禍で大変かと思いますが、詰まったときこそ、一息おいてていねいを心がけたいですね。

「商社マンはロマンだ」という言葉があります。憧れがちなTOEICの点数だとか、起業やインターン経験から感情の温度はどれだけ伝わるでしょう。正直文字に残すのが非常に小っ恥ずかしいですが、こういう温度を持つ大きな絵を語りたい気持ちがあれば、是非、商社の門を叩いてみてください。

乱文、長文失礼しました。ご読了頂き有難うございました。
2009年入学国際教養学部(2013年卒ができず2014年卒

ずいうん

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