人間と動物の違い

よく人間と動物の違いは理性の有無であると言われる。
では理性とはなんだろうか。

従順で周りに合わせ社会を作ることだろうか。しかし犬猫でも社会があるし、人間の言うことを聞くが対価を求めてのことである。対価とはおやつかもしれないし、可愛がられることかもしれない。熱水噴出孔で生命が誕生してから現在に至るまで、競争や選択や偶然に積み重ねられた遺伝子に書き込まれた本能に、生後の若干の学習が加わったものでしかない。

理性とは何かを考えていると、私は一つの考えに行き着いた。
理性があれば本能を客観視できるということだ。
これに気づくことができると、いかに多くの行動が本能に操られていたかを実感する。ここでいう本能は三大欲求だけのことではない。眠たいのは本能のせいだなんてことは誰でもわかる。本能を客観視できるようになるまで、あらゆる行動が本能ベースだったと言っても過言ではない。考えることが理性で考えることが人間であると思っている人が多いが犬猫だって考えている。(お金稼ぎのために)我々の周りに本能を刺激させることが多すぎて気づけなくなっているのだ。(特にマスメディアの広告)

思い起こせば運動部をやっていたのもモテたいためで、勉強したのも誰かに負けたくなかったり褒められたいためで、大学に行ったのもそうだ。人を好きになるのも死ぬのが怖くて眠れない日があったのも、金や評価のために仕事を一生懸命やるのもただの本能だ。本能で生きていた頃は誰もが競争の敵に見えていた。それもおおよそメディアの影響であったり親や友人の影響である。

自分の行動が本能か理性かを客観視できるようになると、自分で自分の人生を好きなように上書きできるようになる。これはプログラムでしかない遺伝子による本能的行動を、自分の理性で上書きできるという意味である。そして理性とはこの世界で唯一、シミュレーション世界に打ち勝つ力を秘めていると考える。なぜならば理性を持った人間の思考の世界には物理法則などなくシミュレーションの及ぶところではないからである。

まとめると、
 ・理性とは本能を客観視すること、できるようになること
 ・客観視できていない人間のたいていの行動は本能である
 ・考えることは動物でもするのでそれ自体は理性には不十分
  人間だから理性があるわけではない
 ・理性が身につけば遺伝子によるプログラムや仮にシミュレーション世界だっとしてもそれを上書きでき、自分を手に入れ、本当の自分の人生が始まる。

映画マトリックスの真のテーマはこれだったのではないかと思う。

なお、無理に全ての本能を理性で上書きしろと言っているのではない。人類400万年の本能は相当に強烈である。これを抑え込むのは仏でもないと不可能だ。本能を認識できれば本能を適度にコントロールすることもできるのでちょうどよく本能を満たしうまく誤魔化すことが大切であると考える。


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