箱庭の蝶
文字を書くと、言葉に詰まる
果たして今書いているこの行を、私は腑に落ちているのだろうかという迷いが生じる
「まだ、わかっていないのだな」という停滞と謙虚さをあわせもった色味が胸にじんわりとにじむ
血気盛んだったころは、そこで手を止めていた。完璧主義なのだろうか、わかっていないことをすべて詳らかにしなければ、書いてはいけない気がしていたのだ。
いまとなっては、目的のない文字を書くことに諦めがついたので、わからないならわからないなりに、そのことを書きとめて、読み手の方々とそのことを共有してしまおうという脱力をものにしてしまった。これがなくては文字はかけない。
血気盛んだったころは、「わからないこと」を「たのしいこと」と無理にひもづけようとしていた。
そうして未知に対する恐怖を吹き飛ばしてしまわないと、あまりに世界が未知にあふれていて、一歩が踏み出せなかったのだ。
わからないことが少しは減ってきたかなと思えるいまですら、文字を書けばとたんにわかっていなかったことと出会うことができる。文字を書き始める前までは「自分はこういうことが書けるだろうし、これを書けるのは自分だけだろう」とたかをくくっていたというのに、である。
わからないことは減らない。これはもう既知のことなのだ。ならば恐怖とは無縁である。なぜなら恐怖とは未知からいずるものだからである。すると、「わからない」は私のなかでどのような感情を引き出しているのだろう?
いまだにわからないことは嬉しいようだ。
一方で、もう私には世界をつらぬく背骨が見えてしまっているから、その「わからないこと」が背骨をゆらがせるようなことがないのも知っている。だから恐怖はない。
安全な箱庭のなかで新しい蝶に出会ったような、そんな気持ちがうれしくて、文字を書くようになった。
こんな時代にあえて文字を書く理由は、そんなところである。
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