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戦国羽前国人名辞典


【あ】 

合貝志摩守【あいがいしまのかみ(14??~1565)】

武藤義増家臣。最上郡本合海館主。1565年、「本合海の戦い」で武藤義増に従い清水義高勢と戦い討死した。参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版。

合田主計【あいだしゅけい(15??~15??)】

最上義光家臣。村山郡岩波館主。参考文献:「最上義光プロジェクト」bymogapro。

青柳隼人【あおやなぎはやと(15??~15??)】

白鳥義久家臣。家老職。1584年、山形城内で白鳥長久が最上義光に謀殺されたため、延沢満延が白鳥長久の家臣青柳隼人、槇清光に白鳥長久の頸を渡し、裏門から落延びさせた。白鳥長久の菩提を弔うため、照覚寺を開基した。参考文献:「白鳥氏が関連した寺社」by紅玉ネット。

青山吉右衛門【あおやまよしえもん(15??~15??)】

最上義光家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

秋場伝兵衛【あきばでんべい(15??~15??)】

熊野師重家臣。家老職を務めた。釜神喜右衛門とともに湯野沢館の西門を守備した。参考文献:「白鳥氏が関連した寺社」by紅玉ネット。

秋葉太郎左衛門【あきばたろうざえもん(15??~15??)】

最上義光家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

秋保治郎作【あきほじろうざ(15??~16??)】

清水義氏家臣。最上郡古口館主。官途は飛騨守。別名秋穂飛騨。1583年、最上義光から書状を受け取った。1614年、「清水城の戦い」で清水義親が最上家親と戦い討死したため、最上家親に仕えた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

秋保正則【あきほまさのり(15??~15??)】

楯岡満茂家臣。通称與三左衛門。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
 
秋保政光【あきほまさあき(15??~16??)】

秋保正則の男。通称與三左衛門。1622年、最上義俊が改易処分に処されたため、羽後久保田城主佐竹義宣に仕えた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

秋保出雲守【あきほいずものかみ(15??~16??)】

最上義光家臣。通称蔵人。1600年、「長谷堂城の戦い」で最上義光に従い長尾景勝勢と戦い戦功を挙げた。1601年、「酒田城の戦い」で最上義光に従い長尾景勝勢と戦い戦功を挙げた。1603年、由利郡の一揆衆を鎮圧する戦功を挙げた。1622年、最上義俊が改易処分に処されたため、酒井忠勝に仕えた。参考文献:「古城盛衰記」by作者不明。
 
秋保義元【あきほよしもと(15??~16??)】

秋保出雲守の男。通称九郎右衛門。1622年、最上義俊が改易処分に処されたため、加藤嘉明に仕えた。1643年、加藤明成が改易処分に処されたため、牧野親成に仕えた。家老職(250石)を務めた。参考文献:「古城盛衰記」by作者不明。

秋保親常【あきほちかつね(15??~16??)】

秋保義元の男。参考文献:「古城盛衰記」by作者不明。

阿久津豊前守【あくつぶぜんのかみ(15??~15??)】

最上義光家臣。1569年、大浦為信との取次役を務めた。1569年、最上義光の意向を受け武具(槍300本、弓20張、鉄炮30挺)を大浦為信のもとに届けた。1572年、大浦為信が最上義光のもとを訪れると、大浦為信とともに羽黒山で戦勝祈願をした。1590年、「小田原城の戦い」で羽柴秀吉から書状を大浦為信のもとに届けた。参考文献:「最上義光プロジェクト」bymogapro。

浅岡大炊助【あさおかおおいのすけ(15??~1585)】

天童頼澄家臣。村山郡川原子館主。1584年、「舞鶴城の戦い」で天童頼澄が最上義光勢と戦い敗退したため、龍口兵部、佐藤大学とともに最上義光に対抗した。1585年、「中掘館の戦い」で龍口兵部、佐藤大学とともに最上義光勢と戦い討死した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

浅黄尚徳【あさおうなおとこ(15??~15??)】

白鳥義久家臣。官途は丹波守。谷地城の二の丸を守備した。参考文献:「白鳥氏が関連した寺社」by紅玉ネット。

浅川茂平【あさかわもへい(15??~16??)】

東禅寺勝正家臣。最上郡上屋敷館主。大池で代官職を務めた。1588年、「十五里ヶ原の戦い」で東禅寺勝正が長尾景勝の家臣本庄繁長勢と戦い討死したため、鮭延 秀綱に仕えた。参考文献:「古城盛衰記」by作者不明。

浅川采女【あさかわうねめ(15??~15??)】

伊達晴宗家臣。置賜郡戸塚山館主。1569年、「戸塚山館の戦い」で網代伯耆守勢と戦い敗退した。伊達晴宗に仕えた。参考文献:「春の夜の夢」byアテンザ23Z 。

朝日奈讃岐守【あさひなさぬきのかみ(15??~15??)】

最上義光家臣。北村山郡井出館主。1585年、「井出館の戦い」で最上義光に従い太田外記勢と戦い戦功を挙げた。井出館(2,000石)を領した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

朝日奈七郎兵衛【あさひなにちろうひょうえ(15??~16??)】

最上義光家臣。1614年、「添川館の戦い」で一栗高春勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「最上義光プロジェクト」bymogapro。

安喰光信【あじきあきのぶ(15??~1617)】

最上義光家臣。最上郡中里館主。官途は大和守。1589年、「摺上原の戦い」で最上義光の意向を受け伊達政宗を支援して芦名盛重勢と戦い戦功を挙げた。中里館(5,000石)を領した。1608年、山寺立石寺に経巻を寄進した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

安喰信重【あじきのぶしげ(1613~1677)】

安食光信の男。通称七兵衛。1617年、父の安喰光信が病没したため、安喰家の家督を相続した。1622年、最上義俊が改易処分に処されたため、水戸松平頼房に仕えた。参考文献:「最上義光プロジェクト」bymogapro。

安喰重近【あしきしげちか(15??~1667)】

安喰光信の次男。通称治右衛門。別名安恵重近。伊賀衆を率いた。参考文献:「最上義光プロジェクト」bymogapro。

安喰久右衛門【あじききゅううえもん(15??~1681)】

安食光信の三男。別名安恵久右衛門。兄の安喰重近とともに伊賀衆を率いた。1622年、最上義俊が改易処分に処されたため、安恵重近とともに伊賀衆を率い鳥居忠政に仕えた。参考文献:「最上義光プロジェクト」bymogapro。

安喰丹波守【あじきたんばのかみ(15??~1602)】

清水義氏家臣。最上郡片平館主。参考文献:「古城盛衰記」by作者不明。

安喰平右衛門【あじきへいざえもん(15??~15??)】

清水義氏家臣。最上郡安喰館主。清水義氏の領国の内四分の一(5,000石)を領した。参考文献:「最上義光プロジェクト」bymogapro。

安喰長門守【あじきながとのかみ(15??~15??)】

清水義氏家臣。最上郡大館主。参考文献:「最上義光プロジェクト」bymogapro。

安喰治部【あじきじぶ(15??~15??)】

猿羽根義舜家臣。1589年、「猿羽根館の戦い」で猿羽根義舜に従い最上義光勢と戦い降伏した。参考文献:「古城盛衰記」by作者不明。

芦沢織部【あしざわおりべ(15??~16??)】

村山郡芦沢館主。最上義光に仕えた。1622年、最上義康が改易処分に処されれたため、帰農した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

網代伯耆守【あじろほうきのかみ(15??~15??)】

伊達晴宗家臣。置賜郡長手館主。1569年、「戸塚山館の戦い」で伊達晴宗の意向を受け浅川采女勢と戦い戦功が挙げた。1591年、伊達政宗に従い岩出山城に転封した。弟の網代奥右衛門は、長手館に残り天満宮の宮守を務めた。参考文献:「春の夜の夢」byアテンザ23Z 。

安達昌勝【あだちまさかつ(15??~15??)】

楯岡満茂家臣。参考文献:「最上義光プロジェクト」bymogapro。

安達昌友【あだちまさとも(15??~16??)】

安達昌勝の男。通称彦右衛門。1622年、最上義俊が改易処分に処されたため、楯岡満茂とともに酒井忠世に仕えた。参考文献:「最上義光プロジェクト」bymogapro。

安達昌實【あだちまだかん(15??~16??)】

安達昌友の男。1622年、最上義俊が改易処分に処されたため、羽後久保田城主佐竹義宣に仕えた。参考文献:「最上義光プロジェクト」bymogapro。

左沢満政【あてらざわみつまさ(14??~15??)】

寒河江孝広家臣。左沢政勝の次男。官途は式部少輔。白岩広直、吉川満教とともに寒河江孝広を補佐した。1504年、「楯山館の戦い」で寒河江孝広に従い最上義定勢と戦い撃退する戦功を挙げた。

左沢氏政【あてらざわ(15??~15??)】

左沢満政の男。1574年、「天正最上の乱」で寒河江兼広が最上義光に属したため、白岩義広、溝延氏勝とともに伊達輝宗、最上義守を支援した。「寒河江城の戦い」で白岩義広、溝延氏勝、白鳥長久、天童頼貞戸とともに寒河江兼広勢と戦い戦功を挙げた。1584年、「中野城の戦い」で寒河江高基が最上義光勢と戦い討死したため、最上義光に降伏した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

安孫子俊春【あびことしはる(15??~15??)】

溝延孝満家臣。城代家老職を務めた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

安孫子泰時【あびこやすとき(15??~1590)】

安孫子俊春の男。官途は紀伊守。別名溝延長老。慈恩寺に帰依し、城代家老職を弟の安孫子春明に譲り医王山南上院で出家した。1584年、「中野原の戦い」で溝延茂信が寒河江高基に従い最上義光勢と戦い討死したため、慈恩寺に落延びた。1590年、最上義光に捕縛され謀殺された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

安孫子春明【あびこはるあき(15??~15??)】

安孫子俊春の次男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

阿部良輝【あべよしてる(15??~15??)】

武藤晴時家臣。飽海郡磐井出館主。別名安倍良輝。出羽三山の鷹尾山伊氏波神社別当職を務め、鷹尾山衆徒を率いた。1533年、磐井出館を築城した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

阿部貞嗣【あべさだつぐ(15??~1591)】

阿部良輝の男。1588年、「十五里ヶ原の戦い」で鷹尾山衆を率いて武藤義興に従い最上義光勢と戦い戦功を挙げた。1584年、武藤義興が自刃したため、最上義光に仕えた。1591年、「磐井出館の戦い」で長尾景勝の家臣甘粕景継勢と戦い討死した。鷹尾山衆は蕨岡館に落延びた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

阿部頼保【あべよりやす(15??~15??)】

阿部良輝家臣。1591年、「磐井出館の戦い」で阿部貞嗣に従い長尾景勝の甘粕景継勢と戦い敗退した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

阿部越中守【あべえっちゅうのかみ(15??~1615)】

最上義光家臣。川北三奉行衆。1614年、「一栗高春の乱」で志村光惟が討死したため、斎藤筑後守、高橋伊賀守とともに庄内川北地域を治めた。川北奉行職を務めた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

阿部玄蔵【あべげんぞう(15??~15??)】

白鳥義久家臣。参考文献:『最上義光(伊達・上杉と死闘を演じた出羽の勇将)』by中村晃。

阿部三左衛門【あべさんざえもん(15??~15??)】

最上義光家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

安部綱吉【あべうつなよし(1569~1646)】

置賜郡成田館主。菅原内膳の男。通称馬之助。父の菅原内膳は越後安部里館を領した。1572年、「安部里館の戦い」で菅原内膳が本庄繁長勢と戦い討死したため、羽前国に落延びた。1598年、長尾景勝の家臣尾崎重誉に仕えた。1600年、「長谷堂城の戦い」で倉賀野綱元に従い最上義光勢と戦い敗退した。宮内の街割を行い、北条郷の荒地の開発を推し進めた。吉野川の治水や宮内の熊野大社修復にも尽力した。1629年、金山奉行職を務め、金沢、大洞など赤湯周辺の金山を開発した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

安部綱正【あべつなまさ(15??~15??)】

安部綱吉の男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

安保能形【あぼよしかた(15??~1575)】

櫛引郡余目館主。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

安保与次郎【あぼよじろう(15??~1575)】

安保能形の弟。1575年、兄の安保能形が病没したため、安保家の家督を相続した。「余目館の戦い」で武藤義氏勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

姉崎能登守【あねさきのとのかみ(15??~15??)】

延沢満延家臣。最上郡平岡館主。平岡館(1,000石)を領した。1584年、延沢満延とともに最上義光に内応した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

鮎川宮内丞【あゆかわくないのじょう(15??~15??)】

武藤義氏家臣。田川郡岩川館主。1583年、「東禅寺義長の乱」で東禅寺義長とともに武藤義氏勢と戦い東禅寺義長を討取る戦功を挙げた。1588年、「十五里ヶ原の戦い」で本荘繁長、武藤義勝に従い東禅寺義長勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:『最上義光(伊達・上杉と死闘を演じた出羽の勇将)』by中村晃。

鮎貝定宗【あゆかいさだむね(15??~15??)】

置賜郡鮎貝城主。鮎貝宗盛の男。官途は兵庫頭。鮎貝城(35,000石)を領した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

鮎貝盛宗【あゆかいもりむね(15??~15??)】

鮎貝定盛の男。伊達稙宗に仕えた。1542年、「天文伊達の乱」で伊達稙宗に従い伊達晴宗勢と戦い敗退した。「飯沢館の戦い」で伊達晴宗の家臣片倉伊賀守勢と戦い敗退した。所領安堵と守護不入の特権を認められたため、伊達晴宗に仕えた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

鮎貝宗重【あゆかいむねしげ(1555~1624)】

鮎貝盛宗の男。官途は安房守。別名鮎貝盛次。1574年、「芋川の戦い」で伊達輝宗に従い最上義光勢と戦い戦功を挙げた。伊達輝宗を隠居所が完成するまで私邸に迎えた。1587年、「鮎貝宗信の乱」で継嗣の鮎貝宗信が最上義光に内応したため、高玉館に落延びた。1590年、伊達政宗に従い岩出山城に転封した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

鮎貝宗信【あゆかいわむねのぶ(15??~15??)】

鮎貝宗重の男。官途は摂津守。通称藤太郎。別名鮎貝忠旨。室は最上義守の娘。1587年、「鮎貝宗信の乱」で最上義光に内応して伊達政宗勢と戦い敗退したため、叔父の鮎貝茂平のもとに落延びた。「鮎貝城の戦い」で伊達政宗の家臣湯目景康、泉田重光、宮沢元実勢と戦い敗退したため、最上義光のもとに落延びた。延沢光茂に仕えた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

鮎貝覚左衛門【あゆかいかくざえもん(15??~1660)】

鮎貝宗信の男。室は中山朝正の娘。山野辺光茂に仕えた。1622年、最上義俊が改易処分に処されたため、山野辺光茂とともに水戸松平頼房に仕えた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

鮎貝宗益【あゆかいむねます(15??~15??)】

鮎貝宗重の次男。官途は兵庫頭。通称長七郎。別名鮎貝宗定。1587年、「鮎貝城の戦い」で兄の鮎貝宗信が伊達政宗勢と戦い敗退したため、鮎貝家の家督を相続した。1591年、伊達政宗に従い岩出山城に転封して一家の家格の筆頭職を務めた。本吉郡松崎館(1,000石)を領した。泊浜唐船番所の海防警備役を務めた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

鮎貝宗続【あゆかいむねつぐ(15??~15??)】

鮎貝盛宗の男。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

鮎貝宗俱【あゆかいむねとも(15??~15??)】

鮎貝盛宗の三男。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

荒楯十郎【あらだてじゅうろう(15??~15??)】

延沢満延家臣。村山郡荒楯砦主。1584年、「荒楯砦の戦い」で延沢満延に従い最上義光の家臣遠山外記勢と戦い討死した。参考文献:「最上義光プロジェクト」bymogapro。

有路但馬守【ありじたじまのかみ(15??~16??)】

延沢満延家臣。笹原昌良とともに家老職を務めた。1622年、最上義俊が改易処分の処されたため、畑沢で帰農した。参考文献:『最上義光(戦国の驍将)』by新人物往来社。

栗野右衛門【あわのうざえもん(15??~15??)】

伊達晴宗家臣。置賜郡二色根館主。梨郷、関根、中山などに所領を安堵された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

粟野秀用【あわのひでもち(15??~1595)】

栗野右衛門の男。官途は木工頭。通称喜左衛門。伊達輝宗の次男伊達政道の傅役を務めた。1589年、伊達政道が伊達政宗に謀殺されたため、伊達政宗のもとから退去した。羽柴秀次に仕えた。伊予松前城(150,000石)を領した。1595年、「羽柴秀次事件」で連座して自刃した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

栗野弥八郎【あわのよはちろう(15??~15??)】

栗野右衛門家臣。中丸に所領を安堵された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

安斎刑部【あんざいぎょうぶ(15??~15??)】

天童頼直家臣。村山郡安斎館主。天童八人衆。参考文献:『最上義光(戦国の驍将)』by新人物往来社。

安養七兵衛【あんようしちべえ(15??~15??)】

最上義光家臣。1588年、鮭延秀綱、庭月広綱、丹与三とともに最上義光の意向を受け伊達政宗に備えた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

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