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戦国越前国人名辞典


【あ】

青木康延【あおきやすのぶ(14??~15??)】

朝倉氏景家臣。官途は隼人佐。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

青木景康【あおきかげやす(15??~15??)】 

青木康延の男。官途は上野介。府中奉行職を務め、南条郡、今立郡、丹生郡の段銭や棟別銭、夫役や臨時の諸役を徴収した。1529年、今立郡日尾郷の用水争いの訴えを裁決した。1553年、坂井郡内に棟別銭を課した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

青木康忠【あおきやすただ(15??~1573)】

青木景康の男。官途は上野介。通称隼人佐。1568年、朝倉義景のもとに落延びた足利義昭の警護役を務めた。1570年、「第一次越前討伐」で朝倉義景に従い織田信長勢と戦い戦功を挙げた。1573年、「近江刀禰坂の戦い」で朝倉義景に従い織田信長勢と戦い討死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

阿波賀景賢【あばがかげかた(15??~1575)】

朝倉孝景家臣。足羽郡阿波賀館主。官途は但馬守。通称小三郎。同名衆。1568年、足利義昭と朝倉義景の取次役を務めた。1570年、「近江宇佐山城の戦い」で朝倉義景に従い織田信長の家臣森可成、織田信治、青地茂綱、坂井政尚と戦い織田信治を討取る戦功を挙げた。1573年、「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が織田信長勢と戦い滅亡したため、朝倉義鏡に仕えた。1575年、「鉢伏館の戦い」で一向一揆衆とともに織田信長勢と戦い討死した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

阿波賀大膳【あばがだいぜん(15??~15??)】 

阿波賀景賢の男。吉田神道伝授を吉田兼右に申し出た。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

阿波賀権少副【あばがごんしょうふく(15??~15??)】 

阿波賀大膳の男。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

阿波賀与三【あばがよぞう(15??~1575)】

阿波賀景賢の弟。1573年、「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が織田信長勢と戦い滅亡したため、兄の阿波賀景賢とともに朝倉義鏡に仕えた。1575年、「鉢伏館の戦い」で一向一揆衆とともに織田信長勢と戦い討死した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

阿波賀藤四郎【あばがとうしろう(15??~15??)】 
 
阿波賀景賢家臣。御能役者。1568年、朝倉義景の屋敷に訪問した足利義昭の祝宴の猿楽で笛を演奏した。1575年、「鉢伏館の戦い」で阿波賀景賢が一向一揆衆とともに織田信長勢と戦い討死したため、金森長近に仕えた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

阿波賀四郎左衛門尉【あばがしろうざえもんのじょう(15??~15??)】 

阿波賀景賢家臣。1575年、「鉢伏館の戦い」で阿波賀景賢が一向一揆衆とともに織田信長勢と戦い討死したため、前田利家に仕えた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

赤座直則【あかざなおのり(15??~1583)】 

朝倉孝景家臣。南条郡燧館主。官途は但馬守。1573年、「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が織田信長勢と戦い滅亡したため、前波吉継に仕えた。1583年、「賤ヶ岳の戦い」で柴田勝家に従い羽柴秀吉勢と戦い討死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

赤座直保【あかざなおやす(15??~1606)】

赤座直則の男。官途は備後守。通称久兵衛。1583年、「賤ヶ岳の戦い」で父の赤座直則が柴田勝家に従い羽柴秀吉勢と戦い討死したため、羽柴秀吉に仕えた。1590年、「武蔵忍城の戦い」で羽柴秀吉の家臣石田三成に従い北条氏直勢と戦い戦功を挙げた。越前今庄城(20,000石)を領した。1600年、「関ヶ原の役」で石田三成に従い大谷吉継とともに北陸地方を転戦した。「関ヶ原の戦い」で脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠とともに松平元康に内応して大谷吉継勢と戦い戦功を挙げた。役後、改易処分に処された。前田利長に仕えた。松任城(7,000石)を領した。1606年、越中大門川の検分中濁流に呑まれて溺死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

赤座孝治【あかざたかはる(15??~1660)】

赤座直保の男(永原重治の養子)。通称右京。別名永原孝治。1592年、「文禄の役」で羽柴秀吉の意向を受け肥前名護屋城を守備した。1600年、「関ヶ原の戦い」で父の赤座直保とともに松平元康に内応して石田三成勢と戦い戦功を挙げた。父の赤座直保とともに前田利長に仕えた。1606年、赤座直保が越中大門川の検分中に溺死したため、松任城代職(7,000石)を相続した。1614年、「大坂冬の陣」で前田利常に従い真田信繁勢と戦い敗退した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

安居三河守【あぐいみかわのかみ(15??~1573)】

朝倉義景家臣。1573年、「近江刀禰坂の戦い」で朝倉義景が織田信長勢と戦い討死したため、織田信長に仕えた。参考文献:「天下侍魂」by登美ノ勝成。

朝倉孝景【あさくらたかかげ(1428~1481)】

斯波義敏家臣。足羽郡一乗谷城主。朝倉家景の男。越前国守護代職。通称孫右衛門尉。別名朝倉敏景。室は朝倉将景の娘。1458年、「越前長禄の戦い」で甲斐常治を支援して斯波義敏勢と戦い戦功を挙げた。「和田荘の戦い」で斯波義敏の家臣堀江利真、朝倉将景勢と戦い堀江利真、朝倉将景を討取る戦功を挙げた。1460年、「中遠一揆」で甲斐敏光とともに今川範将勢と戦い戦功を挙げた。1467年、「応仁の乱」で斯波義廉とともに山名宗全に従い骨皮道賢勢と戦い戦功を挙げた。1471年、守護権限行使の密約を受け細川勝元に内応した。「越前新庄、鯖江の戦い」で斯波義廉、甲斐敏光勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

朝倉氏景【あさくらうじかげ(1449~1486)】

朝倉孝景の男。越前国守護代職。通称孫右衛門尉。1481年、父の朝倉孝景が病没したため、叔父の朝倉経景、朝倉光玖、朝倉景冬の補佐を受けた。1467年、「応仁の乱」で父の朝倉孝景とともに斯波義廉に従い京都で細川勝元勢と戦い戦功を挙げた。1471年、朝倉孝景とともに守護権限行使の密約を受け細川勝元に内応した。「越前新庄、鯖江の戦い」で斯波義廉、甲斐敏光勢と戦い戦功を挙げた。1474年、「越前殿下、桶田の戦い」で斯波義廉、甲斐敏光勢と戦い戦功を挙げた。1484年、朝倉孝景が病没したため、朝倉家の家督を相続した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

朝倉貞景【あさくらさだかげ(1473~1512)】

朝倉氏景の男。室町幕府越前国守護職。官途は弾正左衛門尉。通称孫次郎。室は斎藤利国の娘。1486年、父の朝倉氏景が病没したため、朝倉家の家督を相続した。1487年、「長享の乱」で陣代の朝倉景冬が足利義尚に従い六角高頼勢と戦い戦功を挙げた。1493年、「明応の政変」で細川政元を支援して足利義材を捕縛する戦功を挙げた。1503年、「朝倉景豊の乱」で朝倉教景とともに朝倉景豊勢と戦い戦功を挙げた。1506年、「九頭龍川の戦い」で朝倉教景が河合宣久、加賀一向一揆衆、越中一向一揆衆、能登一向一揆衆と戦い戦功を挙げた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

朝倉孝景【あさくらたかかげ(1493~1548)】

朝倉貞景の男。官途は弾正左衛門尉。通称孫次郎。室は武田元信の娘(光徳院)。1512年、父の朝倉貞景が病没したため、朝倉家の家督を相続した。朝倉教景の補佐を受け、加賀国の一向一揆と戦い勢力を拡大した。武田元光、浅井亮政、土岐政頼を支援して各国の守護家や諸勢力に軍事的優位性、政治的影響力を確保した。1517年、「丹後加悦城の戦い」で武田元光を支援して代延永春信勢と戦い戦功を挙げた。1526年、「山城七条の戦い」で足利義晴、細川高国、武田元光を支援して三好元長勢と戦い戦功を挙げた。1535年、後奈良天皇の践祚の大礼に一万疋を献上した。1537年、大覚寺義俊の仲介で五ヶ条の条件を提示して本願寺証如との和議を図った失敗した。1537年、「美濃篠脇城の戦い」で東常慶勢と戦い敗退した。参考文献:『戦国時代人物辞典(歴史群像編集部編)』by学研。

朝倉義景【あさくらよしかげ(1533~1573)】

朝倉孝景の男。官途は左衛門督。通称孫次郎。別名朝倉延景。室は細川晴元の娘。継室は近衛稙家の娘。1548年、父の朝倉孝景が病没したため、朝倉家の家督を相続した。叔父の朝倉教景を陣代に加賀国、越前国の一向一揆衆と戦い戦功を挙げた。1564年、「加賀大聖寺城の戦い」で朝倉景鏡、朝倉景隆が加賀一向一揆衆と戦い敗退した。1566年、三好三人衆、松永久秀に追われた足利義昭を保護した。1570年、「第一次越前討伐」で浅井長政の支援を受け織田信長勢と戦い撃退する戦功を挙げた。「近江姉川の戦い」で浅井長政を支援して陣代の朝倉景健が織田信長、松平元康勢と戦い敗退した。「近江坂本の戦い」で浅井長政とともに織田信長の家臣森可成、織田信治、青地茂綱、坂井政尚勢と戦い森可成、織田信治、青地茂綱、坂井政尚を討取る戦功を挙げた。1573年、「近江刀禰坂の戦い」で織田信長勢と戦い壊滅的損害を受け越前国に落延びた。朝倉景鏡が離反したため、賢松寺で自刃した。参考文献:『戦国時代人物辞典(歴史群像編集部編)』by学研。

朝倉阿君【あさくらくまぎみ(1562~1568)】

朝倉義景の男。1562年、朝倉義景と鞍谷嗣知の娘(小宰相)の継嗣として生まれた。1568年、阿君が病没したため、朝倉義景は失意に陥り、政務を放棄して鬱々とした生活を送った。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
 
朝倉愛王丸【あさくらあいおうまる(1570~1573)】

朝倉義景の次男。異母兄の阿君丸が早世していたため、朝倉義景から溺愛された。1573年、朝倉義景とともに大野郡賢松寺に落延びたが、朝倉景鏡の謀反に遭い捕縛され織田信長に引き渡された。今庄で謀殺された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

朝倉信景【あさくらのぶかげ(1571~1652)】

朝倉義景の三男。1573年、「一乗谷城の戦い」で父の朝倉義景が織田信長勢と戦い滅亡したため、本願寺教如のもとに落延びた。1628年、武蔵国遍立寺を建立して、本願寺宣如より本尊を譲り受けて住職を務めた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

朝倉正景【あさくらまさかげ(15??~15??)】

朝倉氏景の次男。丹生郡槇山館主。参考文献:「天下侍魂」by登美ノ勝成。

朝倉輿市郎【あさくらおきうちろう(14??~15??)】

朝倉家景の三男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

朝倉光玖【あさくらこうきゅう(1440~1494)】

朝倉家景の五男。別名慈視院光玖。京都の臨済宗建仁寺の僧。1461年、兄の朝倉孝景の代官職を務めた。1489年、洞雲寺に大野郡鍬懸、弘名の所領を安堵した。大野郡司を務めた。朝倉孝景が病没したため、甥の朝倉氏景の補佐した。養子に迎えていた甥の朝倉教景が朝倉景総に謀殺されたため、朝倉景総と戦い敗退した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

朝倉教景【あさくらのりかげ(1462~1484)】

朝倉孝景の五男(朝倉光玖の養子/弟の朝倉教景と同名)。別名以千宗勝。叔父の朝倉光玖の養子を務めた。1484年、兄の朝倉景総より上席として扱われたため、朝倉景総に謀殺された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

朝倉定国【あさくらさだくに(14??~15??)】

朝倉家景の八男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

朝倉景明【あさくらかげあき(15??~15??)】

朝倉孝景の次男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

朝倉孫四郎【あさくらまごしろう(14??~15??)】

朝倉孝景の三男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

朝倉景総【あさくらかげふさ(14??~1505)】

朝倉孝景の四男。官途は弾正忠。通称孫五郎。別名朝倉元景。1484年、朝倉教景を謀殺したため、叔父の朝倉光玖勢の攻撃を受けた。1496年、「美濃船田の戦い」で朝倉貞景の意向を受け土岐元頼勢と戦い敗退した。越前国を離れ京都の細川政元に仕えた。1503年、朝倉景豊、朝倉教景とともに朝倉貞景に謀反を企てたが失敗に終り加賀国に落延びた。1504年、加賀一向一揆衆の支援を受け、朝倉貞景勢と戦ったが敗れて能登国に落延びた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

朝倉余六【あさくらよろく(15??~15??)】

朝倉景総の男。弟の朝倉地蔵院が跡を継いだ。参考文献:「天下侍魂」by登美ノ勝成。
 
朝倉地蔵院【あさくらじどういん(15??~15??)】

朝倉景総の次男。参考文献:「天下侍魂」by登美ノ勝成。

朝倉時景【あさくらときかげ(14??~15??)】

朝倉孝景の六男。丹生郡織田城主。通称孫七郎。父の朝倉孝景と対立して没落した。参考文献:「天下侍魂」by登美ノ勝成。

朝倉之景【あさくらゆきかげ(15??~15??)】

朝倉時景の男。1573年、「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が織田信長勢と戦い滅亡したため、北条氏政に仕えた。1590年、「小田原城の戦い」で北条氏直が滅亡すると備前国に移住した。参考文献:「天下侍魂」by登美ノ勝成。

朝倉景均【あさくらかげさと(15??~15??)】

久嶽紹良の男。左近将監。父の久嶽紹良は朝倉家景の七男。参考文献:「天下侍魂」by登美ノ勝成。

朝倉景郡【あさくらかげくに(1478~1528)】

朝倉貞景の三男。通称小太郎。参考文献:「天下侍魂」by登美ノ勝成。

朝倉政景【あさくらまさかげ(15??~15??)】

朝倉秀景の男。参考文献:「天下侍魂」by登美ノ勝成。

朝倉政元【あさくらまさもと(1546~1629)】

朝倉政景の男。官途は右京進。通称彦四郎。1573年、「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が織田信長勢と戦い滅亡したため、北条氏政に仕えた。伊豆衆として鎌田館を領した。1590年、「小田原城の戦い」で北条氏直が滅亡したため、羽柴秀次に仕えた。1595年、「羽柴秀次事件」に連座して改易処分に処された。1603年、松平元康に仕えた。紀州松平頼宣に仕え、後に水戸松平頼房に仕えた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

朝倉政明【あさくらまさあき(15??~16??)】

朝倉政元の男。松平秀忠の馬廻衆(500石)を務めた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

朝倉治部大輔【あさくらじぶだいふ(15??~1573)】

朝倉義景家臣。1573年、「近江刀禰坂の戦い」で朝倉義景に従い織田信長勢と戦い討死した。参考文献:『朝倉始末記』by藤居正規。

朝倉景氏【あさくらかげうじ(15??~1573)】

朝倉義景家臣。1573年、「近江刀禰坂の戦い」で朝倉義景に従い織田信長勢と戦い討死した。参考文献:『朝倉始末記』by藤居正規。

朝倉景澄【あさくらかげずみ(15??~15??)】

朝倉教景家臣。1555年、「加賀大聖寺城の戦い」で朝倉教景に従い加賀一向一揆衆と戦い戦功を挙げた。加賀敷地城の守将を務めた。参考文献:「天下侍魂」by登美ノ勝成。

朝倉景満【あさくらかげみつ(15??~15??)】

朝倉義景家臣。官途は左近充。奏者役を務めた。参考文献:「天下侍魂」by登美ノ勝成。

朝倉治部丞【あさくらじぶのじょう(15??~1573)】

朝倉義景家臣。1573年、「近江刀禰坂の戦い」で朝倉義景に従い織田信長勢と戦い討死した。参考文献:「天下侍魂」by登美ノ勝成。

朝倉九郎兵衛【あさくらきゅうべい(15??~15??)】

朝倉景豊の男。参考文献:「天下侍魂」by登美ノ勝成。
 
朝倉春蘭軒【あさくらしゅんらんけん(15??~15??)】

朝倉景豊の次男。参考文献:「天下侍魂」by登美ノ勝成。
 
朝倉小七郎【あさくらこちちろう(15??~15??)】

朝倉孫九郎の男。参考文献:「天下侍魂」by登美ノ勝成。

朝倉景伝【あさくらあげでん(15??~15??)】

朝倉景理の男。官途は越中守。通称玄番助。奉行職。参考文献:「天下侍魂」by登美ノ勝成。
 
朝倉景亮【あさくらかげりょう(15??~15??)】

朝倉義景家臣。官途は出雲守。参考文献:「天下侍魂」by登美ノ勝成。

大野朝倉景高【あさくらかげたか(1495~1543)】 

朝倉孝景家臣。大野郡戌山城主。朝倉貞景の次男。大野郡惣領職。官途は右兵衛尉。通称次郎左衛門。室は烏丸冬光の娘。1519年、「美濃福光、鷺山の戦い」で朝倉孝景の意向を受け土岐政頼を支援して土岐頼芸勢と戦い敗退した。朝倉孝景と対立して武田元光のもよに落延びた。1541年、本願寺証如の支援を受けるため、三ヶ条(門徒になる、三郡を寄進する、誓紙を差し出す)を提示したが、拒否され西国に落延びた。公家の娘を内室に迎え、公家や将軍家と交流した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

大野朝倉景鏡【あさくらかげあきら(1525~1574)】

朝倉景高の男。官途は式部大輔。通称孫八郎。別名土橋信鏡。1541年、父の朝倉景高が追放処分に処されたが、枝連衆筆頭職の地位を維持した。1568年、足利義昭、二条晴良の宴席で同名衆筆頭(朝倉景鏡、朝倉景健、朝倉景尚、朝倉景盛)を務めた。1570年、「第一次越前侵攻」で浅井長政の支援を受け織田信長勢と戦い戦功を挙げた。「近江姉川の戦い」で朝倉義景の意向を受け朝倉景健、浅井長政とともに織田信長、松平元康勢と戦い敗退した。「近江坂本の戦い」で浅井長政とともに織田信長の家臣森可成、織田信治、青地茂綱、坂井政尚を討取る戦功を挙げた。1573年、「近江刀禰坂の戦い」で朝倉義景に従い織田信長勢と戦い敗退した。織田信長に内応して朝倉義景を自刃に追込んだ。1574年、「平泉寺の戦い」で一向一揆衆と戦い討死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

大野朝倉景次【あさくらかげつぐ(15??~15??)】

朝倉景高の次男。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

敦賀朝倉景冬【あさくらかげふゆ(14??~1495)】

敦賀郡敦賀城主。朝倉家景の四男。敦賀郡司職。官途は遠江守。別名「小天狗」。1458年、「長禄の戦い」で兄の朝倉孝景とともに甲斐常治勢に従い斯波義敏勢と戦い戦功を挙げた。朝倉孝景が病没したため、甥の朝倉氏景を補佐した。1487年、「長享、延徳の乱」で足利義尚に従い六角高頼勢と戦い戦功を挙げた。1490年、足利義政の東山の山荘に仙洞御所の松を移植する奉行職を務めた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

敦賀朝倉景豊【あさくらかげとよ(14??~1503)】

朝倉景冬の男。通称孫四郎。室は朝倉景総の娘。1495年、父の朝倉景が病没したため、敦賀朝倉家の家督を相続した。1503年、「敦賀城の戦い」で朝倉景総と結んで朝倉貞景に謀反を企てた。朝倉貞景勢と戦い討死した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

敦賀朝倉教景【あさくらのりかげ(1477~1555)】

朝倉孝景の八男。通称太郎左衛門。別名朝倉宗滴。1503年、「敦賀城の戦い」で朝倉貞景に従い朝倉景総、朝倉景豊勢と戦い朝倉景豊を討取る戦功を挙げた。敦賀城を領した。1504年、「坪江の戦い」で朝倉景総勢と戦い戦功を挙げた。1506年、「九頭龍川の戦い」で本泉寺蓮悟、加賀一向一揆衆と戦い戦功を挙げた。1517年、「丹後加悦城の戦い」で武田元光を支援して延永春信勢と戦い戦功を挙げた。1525年、六角定頼と浅井亮政との調停役を務めた。1527年、「山城泉乗寺の戦い」で細川晴元勢を支援して三好元長勢と戦い戦功を挙げた。1531年、「加賀手取川の戦い」で加賀一向一揆衆と戦い戦功を挙げた。1544年、「美濃加納口の戦い」で織田信秀とともに長井規秀勢と戦い敗退した。1548年、朝倉孝景が病没したため、甥の朝倉義景が朝倉家の家督を相続した。1555年、「加賀大聖寺城の戦い」で朝倉義景の意向を受け加賀一向一揆衆と戦い戦功を挙げた。まもなく病没した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

敦賀朝倉景紀【あさくらかげとし(15??~1572)】

朝倉貞景の四男(朝倉教景の養子)。通称九郎左衛門。1527年、「山城泉乗寺の戦い」で養父の朝倉教景とともに足利義晴、細川晴元を支援して三好元長勢を撃破した。「東寺の戦い」で三好元長勢らを撃退する戦功を挙げた。1531年、「加賀手取川の戦い」で朝倉教景に従い加賀一向一揆衆と戦い戦功を挙げた。1555年、「加賀大聖寺城の戦い」で朝倉教景が病没したため、敦賀朝倉家の家督を相続した。1561年、「逸見昌経の乱の戦い」で武田義統を支援して栗屋勝久、逸見昌経勢と戦い戦功を挙げた。1570年、「近江姉川の戦い」で朝倉景健に従い松平元康の家臣本多忠勝、榊原康政勢と戦い敗退した。文芸面では連歌を好み、三条西実隆と交流した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

敦賀朝倉景光【あさくらかげみつ(15??~1564)】

朝倉景紀の男。通称太郎左衛門。1558年、父の朝倉景紀から敦賀朝倉家の家督を相続した。1561年、「逸見昌経の乱」で朝倉景紀とともに武田義統を支援して栗屋勝久、逸見昌経勢と戦い戦功を挙げた。1564年、「加賀大聖寺城の戦い」で朝倉景隆、朝倉景鏡と対立して自刃に追込まれた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

敦賀朝倉景恒【あさくら かげつね(15??~1571)】

朝倉景紀の次男。官途は中務大輔。別名「松林院鷹瑳」。1564年、「加賀大聖寺城の戦い」で兄の朝倉景光が朝倉景隆、朝倉景鏡と対立して自刃したため、還俗して敦賀郡惣領職を務めた。1566年、足利義昭を敦賀城に迎え歓待した。父の朝倉景紀とともに朝倉景鏡と席次を争った。1568年、前波景当とともに近江国まで足利義昭の警固役を務めた。1570年、「金ヶ崎城の戦い」で織田信長勢と戦い敗退したため、永平寺に遁世した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

敦賀朝倉貞紀【あさくらさだのり(15??~15??)】

朝倉景紀の三男。1573年、「一乗谷城の戦い」で浅倉義景が織田信長勢と戦い滅亡したため、前田利家の家臣青木信照に仕えた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

敦賀朝倉景善【あさくらかげよし(15??~15??)】

朝倉貞紀の男。参考文献:「天下侍魂」by登美ノ勝成。

敦賀朝倉道景【あさくらみちかげ(1558~1573)】

朝倉景恒の男。通称彦四郎。1573年、「近江刀禰坂の戦い」で朝倉義景に従い織田信長勢と戦い討死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

敦賀朝倉景嘉【あさくら かげよし(1534~15??)】

朝倉景冬家臣。官途は修理亮。1568年、足利義昭の警固役を務めた。1570年、伊勢神宮に参拝して田地を寄進した。1573年、「一乗谷城の戦い」で浅倉義景が織田信長勢と戦い滅亡したため、長尾景虎に仕えた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

坂井朝倉景宗【あさくらかげむね(15??~15??)】

朝倉氏景の次男。坂井郡朝倉山館主。官途は玄蕃助。一乗谷奉行職を務めた。朝倉貞景に仕え北陸各地を転戦した。参考文献:「天下侍魂」by登美ノ勝成。

坂井朝倉景連【あさくらかげつら(15??~1566)】

朝倉教景の男(朝倉景宗の養子)。官途は玄蕃充。前波景定、小泉長利、河合吉統とともに朝倉義景の奉行職を務めた。1555年、「加賀大聖寺城の戦い」で朝倉教景に従い一向一揆衆と戦い戦功を挙げた。1561年、朝倉義景が大窪浜で催した犬追物に参加した。1562年、大覚寺義俊を慰問する曲水宴に参列した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

坂井朝倉景胤【あさくらかげたね(15??~1575)】

朝倉景連の男。通称三郎。1573年、「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が織田信長勢と戦い滅亡したため、織田信長に仕えた。1574年、「一乗谷城の戦い」で朝倉景健、富田長繁とともに一向一揆衆に内応した。1575年、織田信長の反撃を受け敗退したため、降伏した。許されず斬頸に処された。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

坂井朝倉景泰【あさくらかげやす(15??~15??)】

朝倉景連の次男。官途は越中守。通称七郎。1573年、「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が織田信長勢と戦い滅亡したため、朝倉景鏡、朝倉景健とともに織田信長に仕えた。1574年、「一乗谷城の戦い」で一向一揆衆と戦い敗退した。参考文献:「天下侍魂」by登美ノ勝成。

足羽朝倉経景【あさくらさつねかが(1438~1491)】

朝倉経景の次男。足羽郡安居城主。官途は下野守。足羽郡司。通称与三右衛門尉。1458年、「長禄の戦い」で兄の朝倉孝景とともに甲斐常治に従い斯波義敏勢と戦い戦功を挙げた。1468年、甥の朝倉氏景が留守居役を務めた。朝倉孝景、朝倉光玖、朝倉景らとともに越前国内を転戦した。1481年、朝倉孝景が病没後したため、朝倉氏景を補佐した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

足羽朝倉景職【あさくらかげもと(1484~1535)】

朝倉経景の男。通称与三右衛門尉。室は朝倉貞景の娘(北殿)。北殿を内室に迎え、枝連衆筆頭職を務めた。1506年、「九頭竜川の戦い」で朝倉教景に従い一向一揆衆と戦い戦功を挙げた。 1513年、笛の名人彦兵衛から秘伝書『遊舞集』を教授された。1517年、「丹後加悦城の戦い」で武田元光を支援して代延永春信勢と戦い戦功を挙げた。1525年、「美濃稲葉山城の戦い」で土岐頼武を支援して土岐頼芸、長井長弘勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

足羽朝倉景隆【あさくらかげたか(1508~1570)】

朝倉景職の男。通称右兵衛尉。猛将。1555年、「加賀大聖寺城の戦い」で朝倉教景が病没したため、陣代職を務めた。11558年、一向一揆衆と和議を結んだ。564年、「加賀侵攻」で朝倉景鏡とともに加賀一向一揆衆と戦い敗退した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

足羽朝倉景健【あさくらかげたけ(15??~1575)】

朝倉景隆の四男。通称孫三郎。別名安居景高。室は朝倉義景の娘。1570年、「第一次越前侵攻」で朝倉景鏡とともに朝倉義景に従い織田信長勢と戦い戦功を挙げた。「姉川の戦い」で朝倉義景の意向を受け織田信長勢と戦い敗退した。「志賀の陣」で朝倉義景に従い織田信長の家臣森可成、青地茂綱、織田信治、坂井政尚勢と戦い戦功を挙げた。1573年、「近江刀禰坂の戦い」で朝倉義景に従い殿を務め、織田信長勢の追撃を受け降伏した。1574年、富田長繁が一向一揆衆と結んで織田信長に謀反を起したため、織田信長の家臣木下祐久、津田元嘉を京都退去させた。1574年、「一乗谷城の戦い」で一向一揆衆と結び富田長繁を討取る戦功を挙げた。1575年、一向一揆衆が織田信長勢と戦い敗退したため、下間頼照、下間頼俊の頸級を取り降伏した。斬頸に処された。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

丹生朝倉景延【あさくらかげのぶ(14??~15??)】

朝倉貞景の六男。丹生郡織田城主。官途は兵庫助。通称孫十郎。1504年、南条郡今泉浦での普請奉行職を務めた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

丹生朝倉景良【あさくらかげよし(15??~15??)】

朝倉景延の男。官途は兵庫助。参考文献:「天下侍魂」by登美ノ勝成。

丹生朝倉景綱【あさくらかげつな(15??~1574)】

朝倉景良の男。官途は兵庫助。別名織田景綱。1570年、「第一次越前侵攻」で朝倉義景に従い織田信長勢と戦い戦功を挙げた。1573年、「近江刀禰坂の戦い」で朝倉義景に従い織田信長勢と戦い敗退した。「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が織田信長勢と戦い滅亡したため、織田信長に仕えた。1574年、「織田城の戦い」で織田信長に従い七里頼周勢と戦い討死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

三留朝倉景儀【あさくらかげのり(15??~15??)】

丹生郡三留館主。朝倉孝景の七男。通称九郎左衛門。兄の朝倉時景の没落後、丹生郡三留館主を務めた。雷沢宝俊を開山として霊泉寺を開いた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

三留朝倉景冬【あさくらかげふゆ(15??~1555)】

朝倉景儀の男。通称孫六郎。1555年、「加賀大聖寺城の戦い」で朝倉教景に従い加賀一向一揆衆と戦い討死した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

三留朝倉景信【あさくらかげのぶ(15??~1574)】

朝倉景冬の男。通称孫六郎。1555年、「加賀大聖寺城の戦い」で父の朝倉景冬が一向一揆衆と戦い討死したため、三留朝倉家の家督を相続した。1573年、「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が織田信長勢と戦い滅亡したため、織田信長に仕えた。1574年、「三留館の戦い」で一向一揆衆と戦い討死した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

三富朝倉景近【あさくらかげちか(15??~15??)】

朝倉景純の男。別名月浦宗市。朝倉景尚が朝倉家の家督を相続した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

三富朝倉景尚【あさくらかげなお(15??~15??)】

朝倉景純の次男。通称左近助。通称又三郎。兄の朝倉景近が病没したため、三富朝倉家の家督を相続した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

三富朝倉景盛【あさくらかげもり(15??~1574)】

朝倉景尚の男。官途は出雲守。通称孫六郎。朝倉左近助の男。官途は出雲守。通称孫六郎。1572年、「虎御前山館の戦い」で朝倉義景に従い織田信長の陣地に火を放ち混乱させた。朝倉義景は陽動と誤認したため、戦果の拡大に失敗した。1573年、「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が織田信長勢と戦い滅亡したため、織田信長に仕えた。朝倉景鏡、朝倉景健とともに織田信長に謁見した。1574年、富田長繁が一向一揆衆とともに織田信長に謀反を起こすと、これと戦い討死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

三富朝倉景茂【あさくらかげもり(15??~15??)】

朝倉景盛の男。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

近江朝倉景賢【あさくらかげかた(15??~15??)】

朝倉義景家臣。官途は近江守。通称大炊助。1556年、日吉神社に灯篭を寄進した。1573年、「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が織田信長勢と戦い討死したため、織田信長に仕えた。参考文献:「天下侍魂」by登美ノ勝成。

寺島朝倉景梁【あさくらかげむね(15??~15??)】

朝倉義景家臣。丹生郡寺島館主。官途は掃部助。別名「紹空」。朝倉三奉行衆を務めた。参考文献:「天下侍魂」by登美ノ勝成。

寺島朝倉景頼【あさくらかもんおすけ(15??~1573)】

朝倉景梁の男。官途は掃部助。通称与七。1573年、「近江刀禰坂の戦い」で朝倉義景に従い織田信長勢と戦い討死した。参考文献:「天下侍魂」by登美ノ勝成。

北庄朝倉景範【あさくらかげのり (14??~15??)】

朝倉景光の男。足羽郡北庄館主。官途は土佐守。1506年、「九頭龍川の戦い」で朝倉教景に従い一向一揆衆と戦い戦功を挙げた。参考文献:「天下侍魂」by登美ノ勝成。

北庄朝倉景行【あさくらかげゆき(14??~1573)】

朝倉景範の男。官途は土佐守。1568年、織田信長の上洛要請に反対した。1570年、「第一次越前討伐」で朝倉義景に従い織田信長勢と戦い撃退する戦功を挙げた。1573年、「近江刀禰坂の戦い」で織田信長の家臣羽柴秀吉勢の追撃を受け討死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

飛鳥井宝光院【あすかいほうこういん(15??~15??)】

大野郡平泉寺宝光院主。宝光院(8,000石)を領した。1573年、「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が織田信長勢と戦い敗退したため、平泉寺に落延びた。1574年、「村岡山砦の戦い」で朝倉景鏡、平泉寺門徒衆とともに一向一揆衆と戦い敗退した。参考文献:「天下侍魂」by登美ノ勝成。

雨夜新左衛門尉【あまよしんざえもん(15??~15??)】

朝倉教景家臣。1555年、「加賀大聖寺城の戦い」で朝倉教景に従い加賀一向一揆衆と戦い戦功を挙げた。参考文献:『福井県史(通史編全6巻)』by福井県。

雨夜景忠【あまよかけただ(15??~15??)】

雨夜新左衛門尉の男。通称新左衛門尉。1573年、「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が織田信長勢と戦い滅亡したため、織田信長に仕えた。1574年、「富田長繁の乱」で織田信長に従い一向一揆衆と戦い敗退した。参考文献:『福井県史(通史編全6巻)』by福井県。

有賀秦六【ありがやすろく(15??~15??)】

朝倉義景家臣。参考文献:「天下侍魂」by登美ノ勝成。

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