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戦国長門国人名辞典


【あ】

青景隆著【あおかげたかあきら(1514~1556)】

大内義興家臣。美禰郡青景城主。官途は越後守。奉行衆。1543年、「第一次月山富田城の戦い」で大内義隆に従い尼子晴久勢と戦い敗退した。1549年、陶晴賢とともに杉重矩や相良武任と対立した。1551年、「大寧寺の変」で陶晴賢とともに大内義隆勢と戦い大内義隆を討取る戦功を挙げた。1555年、「安芸厳島の戦い」で陶晴賢が毛利元就勢と戦い討死したため、大内義長とともに毛利元就に対抗した。1556年、「青景城の戦い」で毛利元就勢と戦い討死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

青景弘忠【あおかげひとただ(15??~15??)】

大内義興家臣。官途は若狭守。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

青景隆時【あおかげたかとき (15??~1551)】

青景弘忠の男。官途は越前守。1551年、「大寧寺の変」で大内義隆とともに陶晴賢勢と戦い討死した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

青景通重【あおかげみちしげ(15??~15??)】

青景弘忠の次男。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

青景通盛【あおかげみちもり(15??~15??)】

青景弘忠の三男。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

青景通則【あおかげみちのり(15??~15??)】

青景弘忠の四男。官途は加賀守。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

青山弾正忠【あおやまだんじょうちゅう(14??~1515)】

大内義興家臣。豊浦郡青山館主。青山弾正忠の男(同名)。1515年、「青山館の戦い」で高森正倫、津原善勝勢と戦い討死した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

青山源三郎【あおやまげんざぶろう(15??~15??)】

豊浦郡勝山館主。甥の青山弾正忠の後見役を務めた。1515年、「青山館の戦い」で青山弾正忠に従い高森正倫、津原善勝勢と戦い討死した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

青山源三郎【あおやまげんざぶろう(14??~1515)】

青山弾正の弟。甥の青山弾正忠の後見役を務めた。1515年、「青山館の戦い」で甥の青山弾正忠とともに高森正倫、津原善勝勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

上利好世【あがりよしよ(15??~15??)】

後根盛勝家臣。官途は和泉守。1551年、「大寧寺の変」で陶晴賢勢と戦い仙崎まで落延びた大内義隆に船を提供した。参考文献:「防長戦国譚」by河村真就。

阿川弘康【あがわひろやす(15??~15??)】

大内政弘家臣。豊浦郡阿川館主。阿川盛康の男。通称三郎。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

阿川康政【あがわやすまさ(14??~15??)】

阿川弘康の男。通称孫七郎。1501年、「豊前馬ヶ岳の戦い」で大内義興に従い戸次親貞の家臣菅原新左衛門勢と戦い菅原新左衛門を討取る戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

阿川綱康【あがわつなやす(14??~1523)】

阿川康政の男。通称掃部允。1523年、「石見周布郷の戦い」で大内義興に従い尼子経久勢と戦い討死した。 参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

阿川康次【あがわやすつぐ(15??~15??)】

阿川綱康の男。通称孫七郎。1534年、「豊後勢場ヶ原の戦い」で兄の阿川康次が大内義隆の家臣陶興房に従い大友義鑑勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

阿川康長【あがわやすなが(15??~15??)】

阿川綱康の次男。通称弥七郎。1534年、「豊後勢場ヶ原の戦い」で兄の阿川康次が大内義隆の家臣陶興房に従い大友義鑑勢と戦い討死したため、阿川家の家督を相続した。1551年、「大寧寺の変」で大内義隆に従い陶晴賢勢と戦い敗退した。大内義隆の意向を受け嶽山を守る冷泉隆豊等を召還した。その後、山中にて甲冑を脱ぎ棄て落延びた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

阿川康久【あがわやすひさ(15??~15??)】

阿川康長の男。通称三郎兵衛。武蔵岩槻城主北条氏房に仕えた。1590年、「小田原城の戦い」で北条氏房に従い羽柴秀吉勢と戦い敗退した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

阿川伊賀守【あがわいがのかみ(15??~15??)】

阿武郡中山館主。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

秋山広道【あきやまひろみち(15??~15??)】

吉見正頼家臣。阿武郡坊山館主。官途は筑後守。1554年、「鰐坊山館の戦い」で益田兼貴、寺戸兼勝勢と戦い敗退した。参考文献:「陰陽散策」byTaiki。

厚元久【あつもとひさ(1555~1585)】

杉重良家臣。厚助五郎の男。官途は兵庫允。厚狭郡厚保地頭職を務めた。1579年、「豊前蓑島城の戦い」で杉重良が大友義鎮に内応して毛利輝元勢と戦い討死したため、連座して幽閉された。参考文献:「防長戦国譚」by河村真就。

後根盛勝【あとねもりかつ(15??~15??)】

大内義隆家臣。大津郡後根館主。海賊衆。1551年、「大寧寺の変」で大内義隆が陶晴賢勢と戦い討死したため、吉見正頼に仕えた。阿武郡川島を領した。参考文献:「陰陽散策」byTaiki。

後根盛道【あとねもりみち(15??~15??)】

大内義隆臣。大津郡瀬戸崎館主。官途は壱岐守。海賊衆。1551年、「大寧寺の変」で大内義隆が陶晴賢勢と戦い討死したため、陶晴賢に仕えた。1555年、「安芸厳島の戦い」で陶晴賢が毛利元就勢と戦い討死したため、吉見正頼に仕えた。参考文献:「防長戦国譚」by河村真就。

阿野新四郎【あのしんしろう(15??~15??)】

大内義隆家臣。大津郡俵山郷の内で15石を領した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

安部家貞【あべいえさだ(14??~15??)】

吉見頼興家臣。1532年、萩常念寺を建立した。参考文献:「防長戦国譚」by河村真就。

安部元貞【あべもとさだ(15??~15??)】

安部家貞の男。指月館を領した。1563年、阿武郡川島庄7石を加増された。参考文献:「防長戦国譚」by河村真就。

伊佐隆光【いさたかみつ(15??~1561)】

大内義隆家臣。美禰郡伊佐館主。通称与三郎。1551年、「大寧寺の変」で伊佐景久とともに大内義隆に従い陶晴賢勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

伊佐元綱【いさもつつな(15??~15??)】

伊佐隆光の男。官途は越中守。1551年、「大寧寺の変」で父の伊佐隆光と大内義隆が陶晴賢勢と戦い討死したため、毛利元就に仕えた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

伊佐行光【いさゆきみつ(15??~15??)】

大内義興家臣。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

伊佐景久【いさかげひさ(15??~1551)】

伊佐行光の男。官途は土佐守。1551年、「大寧寺の変」で伊佐隆光とともに大内義隆に従い陶晴賢勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

石川種吉【いしかわたねよし(15??~15??)】

大内義隆家臣。大津郡石川館主。1551年、「大寧寺の変」で大内義隆が陶晴賢勢と戦い討死したため、毛利元就に仕えた。1556年、毛利元就のもとで大津郡代職を務めた。参考文献:「防長戦国譚」by河村真就。

入江著親【いりえあきちか(15??~1566)】

大内義隆家臣。豊浦郡深川館主。官途は加賀守。1551年、「大寧寺の変」で大内義隆が陶晴賢勢と戦い討死したため、毛利元就に降伏した。1557年、「勝山城の戦い」で毛利元就に従い大内義長勢と戦い戦功を挙げ豊浦郡勝山城を領した。1565年、「伯耆夜見ヶ浜の戦い」で三村家親、香川光景とともに吉川元春に従い福山肥後守勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

入江就昌【いりえなりまさ(15??~1589)】

入江著親の男。通称与三兵衛尉。1564年、父の入江著親が隠居したため、入江家の家督を相続した。1569年、「大内輝弘の乱」で蔵田就貞、渡辺元とともに大内輝弘勢と戦い撃退する戦功を挙げた。1585年、「四国征伐(天正の乱)」で吉原親房とともに児玉就方に従い長宗我部元親勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

入江就貫【いりえなりつら(15??~15??)】

入江著親の次男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

入江元親【いりえもとちか(15??~15??)】

入江就昌の男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

入江貞親【いりえさだちか(15??~15??)】

入江就昌の次男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

入江彦蔵【いりえひこぞう(15??~15??)】

入江就昌の三男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

岩武実秀【いわたけさねひで(15??~15??)】

内藤隆春家臣。豊浦郡岩武館主。通称右衛門尉。1558年、内藤隆春の意向を受け荒滝城番を務めた。参考文献:「陰陽散策」byTaiki。

岩成持之【いわなりもちゆき(15??~15??)】

大内義隆家臣。阿武郡茶臼山館主。官途は豊後守。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

岩正興致【いわまさおき(15??~15??)】

大内義隆家臣。官途は伊豆守。奉行衆。1557年、市川経好に仕えた。参考文献:「陰陽散策」byTaiki。

上野善三衛門【うえのぜんさえもん(15??~15??)】

大内義隆家臣。美禰郡平野館主。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

臼井左京亮【うすいさきょうのすけ(15??~15??)】

吉見正頼家臣。阿武郡鰐坊山館主。1573年、「鰐坊山館の戦い」で益田藤兼勢の攻撃を受け討死した。参考文献:「防長戦国譚」by河村真就。

大内武治【おおうちたけはる(14??~14??)】

大内教弘家臣。官途は弾正少弼。阿武郡代職。通称次郎。1467年、「応仁の乱」で山名持豊に属した大内政弘に従い細川勝元勢と戦い戦功を挙げた。1470年、「大内教幸の乱」で大内教幸、仁保弘有とともに細川勝元に内応して大内政弘と対立した。1471年、「賀年城の戦い」で吉見成頼、三隅長信、周布和兼とともに大内政弘に従い大内政弘の家臣陶弘護、益田貞兼勢と戦い敗退した。1478年、大内政弘と和議を結び、太刀と馬が献上した。参考文献:「戦国日本の津々浦々」by作者不明。

岡部武景【おかべたけかげ(14??~15??)】  

大内義興家臣。美禰郡岩永館主。官途は隠岐守。通称十郎。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

岡部興景【おかべおきかげ(15??~15??)】  

岡部武景の男。官途は讃岐守。通称勘左衛門尉。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

岡部隆景【おかべたかかげ(15??~1551)】  

岡部興景の男。官途は近江守。通称右衛門大夫。1542年、「第一次月山富田城の戦い」で毛利元就とともに大内義隆に従い尼子晴久勢と戦い敗退した。1551年、「大寧寺の変」で大内義隆に従い陶晴賢勢と戦い討死した。辞世の句『時世 露とのみ消えゆくけふの名残りには ただ吹き送る松風の音』。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

岡部景久【おかべかげひさ(15??~15??)】  

岡部隆景の男。官途は淡路守。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

小野清資【おのきよすけ(15??~15??)】

大内義隆家臣。厚狭郡末益館主。官途は山城守。末益館(300石)を領した。1555年、「安芸厳島の戦い」で陶晴賢が毛利元就勢と戦い討死したため、大内義長に従い杉重輔勢と戦い戦功を挙げた。1557年、「勝山城の戦い」で大内義長が毛利元就勢と戦い討死したため、毛利元就に仕えた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

小野矩資【おののりすけ(15??~1600)】

小野清資の男。官途は外記丞。通称弥九郎。別名小野俊久。1557年、「勝山城の戦い」で大内義長が毛利元就勢と戦い討死したため、父の小野清資とともに毛利元就に仕えた。1562年、「豊前松山城の戦い」で天野隆重、中村就久とともに大友義鎮勢と戦い戦功を挙げた。1600年、「伏見城の戦い」で吉川広家、小早川秀包、毛利元康、堅田元慶に従い松平元康の鳥居元忠勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

小野俊賢【おのとしすけ(15??~15??)】

小野矩資の養子。通称市二郎。1567年、父の小野矩資が隠居したため、小野家の家督相を続した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

小野俊資【おのとしすけ(1576~1658)】

小野矩資の男。1600年、「伏見城の戦い」で父の小野矩資が吉川広家に従い松平元康の鳥居元忠勢と戦い討死したため、小野家の家督を相続した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。


【か】

柿並弘慶【かきなみひろよし(1461~1527)】

大内教幸の三男。阿武郡柿並館主。官途は佐渡守。通称八郎。別名大内弘慶。1470年、「大内教幸の乱」で父の大内教幸が大内政弘の家臣陶弘護勢と戦い敗退した。1471年、「賀年館の戦い」で大内教幸が大内政弘勢と戦い豊前国に落延びた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

柿並隆幸【かきなみたかゆき(15??~1554)】

柿並弘慶の次男。通称四郎三郎。1527年、父の柿並弘慶が病没したため、柿並家の家督を相続した。大内義興、大内義隆、大内義長に仕えた。1554年、「折敷畑の戦い」で宮川房長とともに毛利元就の家臣神保宗内勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

柿並隆正【かきなみたかまさ(1523~15??)】

柿並隆幸の男。官途は佐渡守。通称四郎三郎。陶晴賢に仕えた。1554年、「折敷畑の戦い」で父の柿並隆幸が宮川房長とともに毛利元就の家臣神保宗内勢と戦い討死したため、柿並家の家督を相続した。1555年、「厳島の戦い」で陶晴賢に従い毛利元就勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

柿並幸慶【かきなみゆきよし(1544~1625)】

柿並隆正の男。官途は佐渡守。通称清左衛門。1555年、「厳島の戦い」で父の柿並隆正が陶晴賢に従い毛利元就勢と戦い討死したため、柿並家の家督を相続した。1556年、「且山城の戦い」で大内義長が毛利元就勢と戦い討死したため、毛利元就に仕えた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

柿並慶覚【かきなみえいかく(15??~15??)】

柿並幸慶の男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

柿並左衛門【かきなみさえもん(15??~15??)】

柿並隆幸の次男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

賀田盛実【かたもりざね(15??~15??)】

住吉神社大宮司職。1557年、「障子ヶ岳城の戦い」で勝間田就盛とともに草場越中守、小原加賀守、河越伊豆守に擁立された大内義教勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

勝間田盛治【かつまたもりはる(14??~15??)】

内藤隆時家臣。豊浦郡櫛崎館主。勝間田矩益の次男。長門国小守護代職。官途は備前守。別名勝間田春実。1511年、「山城船岡山の戦い」で内藤隆時に従い細川政賢勢と戦い戦功を挙げた。1554年、「三本松城の戦い」で内藤隆世の陣代として陶晴賢、大内義長に従い吉見正頼勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

勝間田盛長【かつまたもりなが(15??~15??)】

内藤隆春家臣。官途は土佐守。1569年、内藤隆春の意向を受け櫛崎館を守備した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

勝間田就盛【かつまたなりもり(15??~1619)】

勝間田盛長の男。官途は右馬頭。1557年、「障子ヶ岳城の戦い」で勝間田盛道とともに草場越中守、小原加賀守、河越伊豆守らに擁立された大内義教勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

勝間田元信【かつまもとのぶ(15??~15??)】

内藤隆時家臣。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

勝間田盛清【かつまもちきよ(15??~15??)】

勝間田元信の男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

勝間田盛道【かつまたもりみち(15??~1593)】

勝間田元信の次男。官途は土佐守。通称五郎右衛門。室は佐々木隆秀の娘。1557年、「障子ヶ岳城の戦い」で勝間田就盛とともに草場越中守、小原加賀守、河越伊豆守らに擁立された大内義教勢と戦い戦功を挙げた。1569年、「打石の戦い」で大内輝弘勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

勝間田春祥【かつまはるよし(15??~15??)】

勝間田元信の三男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

勝屋重秀【かつやしげひで(15??~15??)】

杉重輔家臣。大津郡勝屋館主。通称隼人佐。1557年、「勝山城の戦い」で杉重輔が大内義長、内藤隆世勢と戦い討死したため、龍造寺隆信のもとに落延びた。参考文献:「防長戦国譚」by河村真就。

勝屋重正【かつやしげまさ(15??~15??)】

勝屋重秀の男。通称采女。参考文献:「防長戦国譚」by河村真就。

黒井忠朝【くろいだだより(15??~15??)】

大内義隆家臣。豊浦郡茶臼山館主。通称太郎三郎。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

黒井藤朝【くろいふじのり(15??~15??)】

黒井忠朝の男。通称左右衛門尉。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

小池好安【こうけよしやす(15??~15??)】

美禰郡殿峡山館主。官途は佐渡守。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。


【さ】

雑賀隆知【さいかたかとも(1494~1582)】

大内義興家臣。雑賀範治の男。豊田郡惣領職。官途は紀伊守。通称半十郎。室は松岡道興の娘。1551年、「大寧寺の変」で大内義隆が陶晴賢勢と戦い討死したため、大内義長に仕えた。1557年、「勝山城の戦い」で大内義長が毛利元就勢と戦い滅亡したため、毛利元就に仕えた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

雑賀隆利【さいがたかとし(1527~1605)】

雑賀隆知の男。官途は刑部丞。室は服部豊前守の娘。1557年、「勝山城の戦い」で大内義長が毛利元就勢と戦い滅亡したため、父の雑賀隆知とともに毛利元就に仕えた。「障子ヶ岳城の戦い」で内藤隆春とともに草場越中守、小原加賀守、河越伊豆守らに擁立された大内義教勢と戦い戦功を挙げた。1578年、「市川元教の乱」で内藤元輔とともに市川経好の意向を受け大友義鎮に内応した市川元教を謀殺する戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

雑賀隆与【さいがたかよ(15??~15??)】

雑賀隆知の次男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

雑賀丹治【さいがたんさい(15??~15??)】

雑賀隆知の四男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

雑賀元相【さいがもとそう(1584~1665)】

雑賀隆利の男。通称三郎兵衛尉。1605年、父の雑賀隆利が病没したため、雑賀家の家督を相続した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

雑賀正利【さいがまさとし(15??~1638)】

雑賀隆利の次男。1638年、「島原の乱」で松平信綱に従い益田時貞勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

雑賀正相【さいがまさそう(15??~1638)】

雑賀隆利の三男。1638年、「島原の乱」で兄の雑賀正利とともに松平信綱に従い益田時貞勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

雑賀式部少輔【さいがしきぶしょうゆ(15??~15??)】

雑賀隆知家臣。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

刺賀政頼【さしがまさより(14??~1448)】

鷲頭弘忠家臣。大津郡堅田館主。1448年、「深川城の戦い」で鷲頭弘忠に従い大内教弘勢と戦い討死した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

財満宗因【ざいまむねいん(15??~15??)】

大内義隆家臣。美禰郡財満館主。1551年、「安芸槌山城の戦い」で菅田宣真に従い陶晴賢の意向を受けた毛利元就勢と戦い討死した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

財満忠久【ざいまただひさ(15??~1569)】

財満宗因の男。1551年、「安芸槌山城の戦い」で父の財満宗因が菅田宣真に従い毛利元就勢と戦い討死したため、津室弥左衛門とともに毛利元就に仕え小野村を領した。1563年、「豊前門司城の戦い」で警固衆を率い毛利隆元に従い大友義鎮勢と戦い戦功をあげた。1569年、「筑前立花山城の戦い」で毛利元就に従い大友義鎮勢と戦い討死した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

財満就久【ざいまなりひさ(15??~15??)】

財満忠久の男。通称新右衛門尉。1562年、「蓑島沖の戦い」で能島村上武吉に従い大友義鎮勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

神西信通【じんざいのぶみち(15??~1584)】

大内義隆家臣。通称惣左衛門。1551年、「大寧寺の変」で大内義隆が陶晴賢勢と戦い討死したため、大内義長に仕え長門国豊浦郡、厚狭郡、阿武郡内で75石を領した。参考文献:「防長戦国譚」by河村真就。

神代兼固【じんだいかねかた(15??~15??)】

大内義隆家臣。美禰郡神代館主。官途は蔵人。1551年、「大寧寺の変」で陶晴賢に従い大内義隆勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「防長戦国譚」by河村真就。

神代元里【じんだいもとさと(15??~15??)】

神代兼固の養子。参考文献:「防長戦国譚」by河村真就。

末武朝範【すえたけよりのり(15??~15??)】

美禰郡上領山館主。官途は越前守。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

末武氏久【すえたけうじひさ(14??~1470)】

大内政弘家臣。阿武郡白坂山館主。1470年、「大内教幸の乱」で大内教幸に従い大内政弘の家臣陶弘護勢と戦い討死した。参考文献:「陰陽散策」byTaiki。

末武弘春【すえたけひろはる(15??~15??)】

末武氏久の男。参考文献:「陰陽散策」byTaiki。

末武延資【すえたけのぶすけ(15??~1470)】

末武氏久の次男。1470年、「大内教幸の乱」で父の末武氏久とともに大内教幸に従い大内政弘の家臣陶弘護勢と戦い討死した。参考文献:「陰陽散策」byTaiki。

末武幸氏【すえたけゆきうじ(15??~~1470)】

末武氏久の三男。1470年、「大内教幸の乱」で父の末武氏久とともに大内教幸に従い大内政弘の家臣陶弘護勢と戦い討死した。参考文献:「陰陽散策」byTaiki。
末武弘臣【すえたけひろとみ(15??~15??)】

末武氏久の四男。参考文献:「陰陽散策」byTaiki。

末武長安【すえたけながやす(15??~15??)】

末武氏久の五男。参考文献:「陰陽散策」byTaiki。

末武直氏【すえたけなおうじ(15??~15??)】

末武長安の男。参考文献:「陰陽散策」byTaiki。

末武忠氏【すえたけただうじ(15??~16??)】

末武直氏の男。官途は上総介。1557年、「勝山館の戦い」で大内義長が毛利元就勢と戦い滅亡したため、吉見正頼に仕え大井郷、椿郷内で35石を領した。1604年、吉見広長が毛利輝元のもとを退去したため、毛利秀就に仕えた。参考文献:「陰陽散策」byTaiki。

杉重祐【すぎすけしげ(14??~15??)】

大内義興家臣。厚狭郡信田ノ丸館主。官途は伯耆守。豊前国守護代職。豊前松山城主を務めた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

杉重矩【すぎしげのり(1498~1553)】

杉重祐の男。官途は伯耆守。通称七郎。別名杉重信。1551年、「大寧寺の変」で対立していた陶晴賢と結び大内義隆勢と戦い戦功を挙げた。1553年、「長興寺の戦い」で陶晴賢と対立して勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

杉重輔【すぎしげすけ(15??~1557)】

杉重矩の男。1551年、「大寧寺の変」で父の杉重矩とともに陶晴賢に属して大内義隆勢と戦い戦功を挙げた。1553年、「長興寺の戦い」で杉重矩が陶晴賢勢と戦い討死したため、杉家の家督を相続した。1555年、「富田若山城の戦い」で陶長房、問田隆盛勢と戦い陶長房、問田隆盛を討取る戦功を挙げた。1557年、「勝山城の戦い」で大内義長、内藤隆世勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

杉重良【すぎしげよし(1554~1579)】

杉重輔の男。官途は伯耆守。通称七郎。別名杉重長。室は福原広俊の娘。1557年、「勝山城の戦い」で父の杉重輔が内藤隆世勢と戦い討死したため、杉家の家督を相続した。1569年、「大内輝弘の乱」で毛利元就に従い大内輝弘勢と戦い大内輝弘を討取る戦功を挙げた。1579年、「豊前蓑島館の戦い」で大友義鎮に内応したため、秋月種実、高橋鑑種、長野種信勢の攻撃を受け討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

杉元良【すぎもとよし(15??~1625)】

杉重良の男。通称少輔九郎。1579年、「豊前蓑島館の戦い」で父の杉重良が大友義鎮に内応して秋月種実、高橋鑑種、長野種信勢と戦い討死したため、杉家の家督を相続した。1588年、長門豊田郡内509石、大津郡内605石の所領を安堵された。1602年、毛利輝元が防長2ヶ国に減封に処されたため、周防玖珂郡鳴川などで100石を領した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

杉正重【すぎまさしげ(15??~15??)】

杉重矩の次男。1557年、「龍文寺の戦い」で杉重輔とともに陶貞明勢戦い陶貞明を討取る戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

須子秀国【すこひでくに(15??~15??)】

吉見正頼家臣。阿武郡櫛崎館主。通称若狭守。1542年、「月山富田城の戦い」で吉見正頼に従い尼子晴久勢と戦い敗退した。1554年、「櫛崎館の戦い」で益田兼貴、寺戸兼勝勢の攻撃を受け敗退した。1556年、「櫛崎館の戦い」で毛利元就の支援を受け益田兼貴勢と戦い櫛崎館を奪還した。参考文献:「防長戦国譚」by河村真就。


【た】

高石興幸【たかいしおきゆき(15??~15??)】

柿並弘慶の男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

高森正倫【たかもりまさとも(14??~1527)】

青山弾正忠家臣。豊浦郡勝山城主。通称内膳之助。1515年、「青山館の戦い」で津原善勝とともに青山弾正忠勢と戦い青山弾正忠を討取る戦功を挙げた。1527年、「勝山青山の戦い」で津原膳勝、津田興輝とともに大内義隆の家臣内藤興盛勢と戦い捕縛され斬頸に処された。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

田代光友【たしろたみつとも(15??~15??)】

美禰郡田代山館主。官途は出雲守。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

田中次郎兵衛【たなかじろうべい(15??~15??)】

波多野滋信家臣。1554年、「賀年館の戦い」で波多野滋信に従い陶晴賢勢と戦い内応したため、波多野滋信が討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

津田興輝【つだおきてる(14??~15??)】

大内義興家臣。豊浦郡津田館主。1527年、「勝山青山の戦い」で津原膳勝とともに高森正倫に従い大内義興の家臣内藤興盛勢と戦い敗退した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

津原膳勝【つはらよしかつ(14??~15??)】

青山弾正忠家臣。豊浦郡稲積山館主。1515年、「青山館の戦い」で高森正倫とともに青山弾正忠勢と戦い青山弾正忠を討取る戦功を挙げた。1520年仏門に帰依した。1527年、「勝山青山の戦い」で津田興輝とともに高森正倫に従い内藤興盛勢と戦い敗退した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

津原善次【つはらよしつぐ(14??~1527)】

津原膳勝の男。1527年、「勝山青山の戦い」で津原膳勝とともに高森正倫に従い内藤興盛勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

寺戸兼勝【てらどかねかつ(15??~15??)】

益田藤兼家臣。阿武郡須佐水海懸館主。通称大学介。家老職。1554年、「日原下瀬館の戦い」で益田藤兼に従い下瀬頼郷、吉見頼明、水津与四郎、水津藤四郎、水津五郎左衛門、岡小二郎、弘中弥四郎勢と戦い敗退した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

刀禰河内守【とうねかわちのかみ(15??~15??)】

大内義興家臣。美禰郡小野館主。官途は河内守。貨幣鋳造に携わった。参考文献:「防長戦国譚」by河村真就。

伴田岩松【ともだいわまつ(15??~15??)】

大内義隆家臣。大津郡俵山郷の内で25石を領した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

豊田種貞【とよたたねさだ(15??~15??)】

大内義長家臣。豊田郡向山豊田館主。豊田興種の男。1544年、東八幡宮に善神王像を寄進した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

豊田房種【とよたふさたな(15??~1556)】

豊田種貞の男。通称五郎。1555年、日輪寺焼失の責任を問われ大内義長から追放処分に処された。1556年、自刃した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。


【な】

内藤武盛【ないとうたけもり(14??~1470)】

大内政弘家臣。厚狭郡荒滝山城主。内藤盛世の男。長門国守護代職。1470年、「大内教幸の乱」で大内教幸に従い大内政弘の家臣陶弘護勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

内藤弘矩【ないとうひろのり(1446~1495)】

内藤盛世の次男。官途は弾正忠。通称弥七。1467年、「応仁の乱」で大内政弘に従い京都に赴き細川勝元勢と戦い戦功を挙げた。1470年、「大内教幸の乱」で兄の内藤武盛が大内教幸に従い大内政弘の家臣陶弘護勢と戦い討死したため、内藤家の家督を相続した。1482年、「大内山口事件」で陶弘護が吉見信頼に謀殺されたため、筆頭家老職を務めた。1495年、大内義興から謀反の嫌疑を受け陶武護に謀殺された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

内藤弘和【ないとうひろかず(14??~1495)】

内藤弘矩の男。1495年、「荒滝山城の戦い」で父の内藤弘矩が大内義興から謀反の嫌疑を受け陶武護に謀殺されたため、荒滝山城に籠城したが大内義興の家臣陶武護勢の攻撃を受け討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

内藤弘春【ないとうひろはる(14??~1502)】

内藤盛世の三男。官途は掃部頭。1495年、「荒滝山城の戦い」で兄の内藤弘矩と甥の内藤弘和が討死したため、内藤家の家督を相続した。1501年、「豊前馬ヶ岳城の戦い」で大内義興の意向を受け少弐資元、大友親治、大友義親勢と戦い撃退する戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

内藤興盛【ないとうおきもり(1495~1554)】

内藤弘春の男。官途は弾正忠。通称彦太郎。室は内藤弘矩の娘。1502年、父の内藤弘春が病没したため、内藤家の家督を相続して長門国守護代職を務めた。1540年、「吉田郡山城の戦い」で陶晴賢らとともに大内義隆の意向を受け毛利元就を支援して尼子晴久勢と戦い戦功を挙げた。1542年、「第一次月山富田城の戦い」で毛利元就とともに大内義隆に従い尼子晴久勢と戦い敗退した。1551年、「大寧寺の変」で大内義隆からの陶晴賢との和議の仲介要請を拒否して隠居した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

内藤隆時【ないとうたかとき(15??~15??)】

内藤興盛の男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

内藤隆世【ないとうたかよ(15??~1557)】

内藤隆時の男。官途は弾正忠。通称彦太郎。1551年、「大寧寺の変」で大内義隆が陶晴賢勢と戦い討死したため、陶晴賢と結び大内義長を擁立した。祖父の内藤興盛が隠居したため、内藤家の家督を相続して長門国守護代職を務めた。1555年、「安芸厳島の戦い」で陶晴賢が毛利元就勢と戦い討死したため、大内義長を補佐した。1556年、「且山城の戦い」で大内義長とともに毛利元就勢と戦い大内義長の助命を条件に開城した。1557年、大内義長とともに自刃した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

内藤正朝【ないとうまさとも(15??~1541)】

内藤興盛の次男。通称彦次郎。1541年、「安芸桜尾館の戦い」で熊野藤右衛門尉、宮川大蔵太輔とともに大内義隆に従い友田興藤の家臣桑原与四郎勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

内藤隆貞【ないとうたかさだ(15??~15??)】

内藤興盛の三男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

内藤弥二郎【ないとうよじろう(15??~15??)】

内藤興盛の四男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

内藤隆春【ないとうたかはる(1528~1600)】

内藤興盛の五男。官途は左衛門大夫。通称亦二郎。室は吉見隆頼の娘。1551年、「大寧寺の変」で大内義隆が陶晴賢勢と戦い討死したため、父の内藤興盛とともに陶晴賢と結び大内義長を擁立した。1555年、「安芸厳島の戦い」で陶晴賢が毛利元就勢と戦い討死したため、毛利元就に内応して甥の内藤隆世から内藤家の家督を簒奪した。1557年、「勝山城の戦い」で毛利元就に従い大内義長勢と戦い戦功を挙げた。「妙見崎の戦い」で大内義教、草場越中守勢と戦い大内義教を討取る戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

内藤元盛【ないとうもともり(15??~1615)】

宍戸元秀の次男(内藤隆春の養子)。官途は修理大夫。別名佐野道可。室は綾木の大方。長門国内で10,000石を領した。1614年、「大坂冬の陣」で毛利輝元の意向を受け金500枚とともに大坂城に入城した。1615年、「大坂夏の陣」で羽柴秀頼が松平元康勢と戦い滅亡したため、京都で捕縛された。大目付の柳生宗矩に対し、毛利輝元との関係を否定して山城国鷲巣寺で自刃した。二人の息子内藤元珍、粟屋元豊も毛利輝元の意向で自刃させられた。内藤元珍の継嗣内藤元宣を幽閉して家名存続の約束を反故とした。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

内藤隆安【ないとうたかやす(14??~15??)】

大内義興家臣。官途は帯刀。1506年、玖珂郡山代五ヶ郷の検地の竿頭を務めた。参考文献:「防長戦国譚」by河村真就。


【は】

箱田弥秀【はこだひさひで(15??~15??)】

大内義隆家臣。厚狭郡内郡館主。官途は左馬允。参考文献:「防長戦国譚」by河村真就。

波多野滋信【はたのしげのぶ(15??~1554)】

吉見隆頼家臣。阿武郡勝山館主。官途は内蔵介。室は吉見隆頼の娘。1554年、「賀年館の戦い」で吉見正頼の支援を受け吉見範弘、下瀬頼定、吉賀頼貞とともに陶晴賢勢と戦い家臣の田中次郎兵衛が内応したため、討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

波多野秀信【はたのひでのぶ(15??~1554)】

波多野滋信の男。1554年、「賀年館の戦い」で父の波多野滋信とともに陶晴賢勢と戦い家臣の田中次郎兵衛が内応したため、討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

波多野興景【はたのおきかげ(15??~15??)】

吉見隆頼家臣。阿武郡城之腰館主。参考文献:「防長戦国譚」by河村真就。

波多野頼武【はたのよりたけ(15??~16??)】

波多野興景の男。官途は右馬允。1604年、吉見広長が毛利輝元のもとを退去したため、毛利輝元に仕えた。参考文献:「防長戦国譚」by河村真就。

幡生言延【はたぶことのぶ(15??~15??)】

厚狭郡惣社八幡宮大宮司。1551年、「大寧寺の変」で陶晴賢に従い大内義隆勢と戦い戦功を挙げた。1555年、「安芸厳島の戦い」で陶晴賢が毛利元就勢と戦い討死したため、毛利元就に仕えた。参考文献:「陰陽散策」byTaiki。

埴生家満【はにわいえみつ(15??~15??)】

内藤興盛家臣。厚狭郡埴生山館主。官途は若狭守。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

藤田秀政【ふじたひでまさ(15??~15??)】

大内義隆家臣。美禰郡藤ノ丸山館主。官途は丹後守。官途は若狭守。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

保木主計【ほきしゅけい(15??~15??)】

豊浦郡保木館主。官途は若狭守。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。


【ま】

須佐益田兼貴【ますだかねたか(15??~15??)】

益田藤兼家臣。阿武郡須佐磯館主。通称刑部大輔。1542年、「第一次月山富田城の戦い」で大内義隆に従い尼子晴久勢と戦い敗退した。1552年、「虫追大嶽館の戦い」で町野隆風とともに大内義長の家臣陶晴賢に従い吉見正頼勢と戦い敗退した。1562年、「須佐磯館の戦い」で吉見正頼勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

松倉伊賀守【まつくらいがのかみ(15??~15??)】

吉見正頼家臣。阿武郡城腰山館主。参考文献:「防長戦国譚」by河村真就。

右田弘詮【みぎたひろのぶ(14??~1523)】

大内政弘家臣。豊浦郡諏訪山館主。陶弘房の次男。官途は安房守。別名陶弘詮。父の陶弘房は右田弘篤の家督を相続していたが、兄の陶弘正が討死したため、陶家の家督を相続した。次男の朝倉弘詮が右田家の家督を相続した。1469年、「肥前晴気城の戦い」で大内政弘の意向を受け兄の陶弘護とともに少弐教頼勢と戦い少弐教頼を討取る戦功を挙げた。1482年、「大内山口事件」で陶弘護が吉見信頼に謀殺されたため、陶興房の陣代として周防国、筑前両国の守護代職を務めた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

右田興就【みぎたおきなり(15??~15??)】

右田弘詮の男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

右田隆康【みぎたたかやす(15??~1551)】

右田弘詮の次男。官途は右馬允。通称与市郎。1523年、父の右田弘詮が病没したため、右田家の家督を相続した。1542年、「第一次月山富田城の戦い」で大内義隆に従い尼子晴久勢と戦い敗退した。1551年、「大寧寺の変」で冷泉隆豊とともに大内義隆に従い陶晴賢勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

右田隆弘【みぎたたかひろ(15??~1551)】

右田隆康の男。別名陶隆弘。1551年、「大寧寺の変」で父の右田隆弘とともに大内義隆に従い陶晴賢勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

右田元弘【みぎたもとひろ(1551~1614)】

右田隆康の次男(宇野景政の養子)。通称又右衛門尉。別名宇野元弘。1551年、「大寧寺の変」で父の右田隆弘が大内義隆に従い陶晴賢勢と戦い討死したため、毛利元就のもとに落延びた。1557年、「周防須々万沼城の戦い」で毛利元就に従い江良房栄の家臣江良昌泰を討取る戦功を挙げ周防国吉敷郡宇野内で80石と玖珂郡生見郷内で20石を領した。1574年、周防国吉敷郡内で15石の加増を受けた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

三井元信【みついもとのぶ(15??~15??)】

豊浦郡三井館主。官途は但馬守。通称善兵衛。1600年、毛利輝元に従い防長2ヶ国に転封した。破綻した財政の建て直しに貢献した。1607年、防長2ヶ国の検地奉行職を務めた。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

美和郷幸【みわさとゆき(15??~1577)】

大内義隆家臣。美禰郡美和館主。1557年、「美和館の戦い」で毛利元就勢の攻撃を受け降伏した。美禰郡内の所領安堵を受けた。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。


【や】

山田方明【やまだかたあき(15??~15??)】

大内義隆家臣。大津郡立石館主。官途は掃部允。1529年、豊西郡富成名で3町6段を領した。1545年、大津郡日置庄立石名(16石)を領した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

山田言輔【やまだことすけ(15??~15??)】

山田方明の男。官途は隠岐守。通称四郎。1547年、父の山田方明が隠居したため、山田家の家督を相続した。1548年、「備後神辺城の戦い」で杉甲斐守、弘中隆包、小原隆言とともに陶晴賢に従い山名理興勢と戦い戦功を挙げた。1557年、「立石館の戦い」で毛利元就勢と戦い敗退した。長門国内で先導役を務め、所領安堵を受けた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

山田余四郎【やまだよしろう(15??~16??)】

山田言輔の男。官途は中務丞。1585年、「四国討伐(天正の乱)」で小早川隆景に従い長宗我部元親勢と戦い戦功を挙げた。1588年、大津郡河原、倉小田、新別名の加増を受けた。1602年、毛利輝元に従い防長2ヶ国に転封した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

山田氏助【やまだうじすけ(15??~15??)】  

大内義隆家臣。見島郡福戸館主。官途は長門守。海賊衆。萩の見島地頭職を務めた。1551年、「大寧寺の変」で大内義隆が陶晴賢勢と戦い討死したため、益田元祥に仕えた。参考文献:「陰陽散策」byTaiki。

鷲頭弘忠【わしずひろただ(14??~1448)】

大内持世家臣。大津郡深川館主。鷲頭弘為の男。官途は加賀守。長門国守護代職。1446年、大内教弘と対立してため、長門国守護代職を解任された。1448年、「深川城の戦い」で大内教弘勢と戦い討死した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

鷲頭弘貞【わしずほろただ(14??~1448)】

鷲頭弘忠の男。1448年、「深川城の戦い」で父の鷲頭弘忠とともに大内教弘勢と戦い討死した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

鷲頭弘永【わしずひろなが(14??~1448)】

鷲頭弘忠の次男。1448年、「深川城の戦い」で父の鷲頭弘忠とともに大内教弘勢と戦い討死した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。


【資料Ⅰ】

長門国(6郡/134,000石)

厚狭郡(16,000石):荒滝山城(16,000石)、惣社八幡宮(2,000石)。
豊浦郡(42,000石):勝山城(10,000石)、櫛崎館、三井館、赤間関。
美禰郡(20,000石):青景城(10,000石)、龍化山館、美和館。
大津郡(16,000石):深川館、稲石館、立石館、大寧寺(寺社)。
阿武郡(30,000石):萩館、坊山館、中山館、須佐湊。
見島郡(2,000石):見島砦(2,000石)。


【資料Ⅱ】

大内家三家老職【おおうちけさんかろうしょく】

陶晴賢、内藤隆春、杉隆泰。


【資料Ⅲ】

長門国【ながとこく】

本州の最西端に位置する山陽道の国。東北は石見国、東南は周防国に接し、南は関門海峡を経て豊前、筑前国、周防灘を豊後の国東半島を臨む。国の中央に西中国山地、その谷間を阿武川、木屋川、厚東川、厚狭川などの河川が流域を作り、比較的広いを平野部を形成している。厚東川から厚狭川の間の周防灘に面する海岸線には、広い平野を形成している。国内は瀬戸内海、日本海、山間部に三分割されている。石見、周防に接する東方を除いた三方は周防灘、響灘、日本海に面し、水運が発達した。

赤間関【あかまがせき】

下関海峡の北岸に位置し、九州および大陸との交通の要地。外国船接待のため臨海館がおかれ、鎌倉時代は元寇に備え長門探題がおかれた。上方と北国との中継商業地として繁栄した。

赤間関地下中【あかまがせき じげちゅう】

赤間関街衆の総称。街衆により構成される組織。関役人、問丸として大内家や毛利家と結んだ、佐甲家や伊藤家などの上層の特権商人を指導者として構成されている。1554年、赤間警固衆(地下人)は、佐甲藤太郎に従い海賊衆と戦い戦功を挙げた。1557年、毛利元就と交渉して軍勢の狼藉に対する防戦権を認めさせた。

石火矢【いしびや】

戦国期、海外から輸入された大型砲。日本に渡来した石火矢は、玉と玉薬を入れる取っ手の付いた付属品の入れ子の形式から東南アジア系のフランキ砲。

須佐湊【すさみなと】

阿武郡須佐湾の天然の良湊。益田藤兼は海賊衆を組織して物資の輸送を行い見島や博多近辺で交易を行った。1557年、毛利元就の直轄領となった。1564年、山口奉行職を務めた市川経好は、温科吉左衛門尉の持船三艘のうち一艘について、駄別、船前、帆数などの役を免除することを赤間関、肥中関、通関、須佐関、温泉津関の奉行に告げた。


戦国人名辞典は、1467年、「応仁の乱」から1637年、「島原の乱」までの期間に活躍した武将をサイト管理人(takatoshi24)の独断と偏見に基づいて編集した国別の戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいますが、親子は年代順、本家と分家がある場合、分家をしたにして居住地域をを苗字の頭に入れています。資料Ⅰは国、郡別の石高、城郭、寺院、街、湊などを記載。資料Ⅱは国で有名な集団(三好三人衆など)についての説明をしています。資料Ⅲは国の詳細(各国の特性、景勝の地、特産品など)を説明しています。また、武将の名前が変わる場合(松平元康→徳川家康)など、松平元康で統一しています。

印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。

陶隆房は陶晴賢、尼子詮久は尼子晴久、大友宗麟は大友義鎮、黒田如水は黒田孝高、立花道雪は戸次鑑連、武田信玄は武田晴信、上杉謙信は長尾景虎、斎藤道三は長井規秀、豊臣秀吉は羽柴秀吉、徳川家康は松平元康に統一しています。

城と館の違いは、城は10,000石以上の領主の居城。館、砦は9,999石以下の領主の居城としました。館と砦の違いは平地にある場合は館、山岳地帯、諸島にある場合は砦としてました。

参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社、『戦国大名系譜人名辞典(西国編)』by新人物往来社、『信長の野望【革新】マニアックス』by株式会社コーエー、『戦国国取りガイド』by新紀元社、『戦国人名辞典』by新人物往来社、『戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『クロニック戦国全史』by講談社、『天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)』by角川書店、『戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)』by新人物往来社、『歴史読本(戦国大名家370出自総覧)』by新人物往来社、『戦国大名マニュアル』by新紀元社、『戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『戦国武将ガイド』by新紀元社、『(歴史と旅臨時増刊)戦国大名家臣団総覧』by秋田書院。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」、「戦国大名探究」by播磨屋、「城郭放浪記」byPEI.、「防長戦国譚」by河村真就、「陰陽散策」byTaiki。


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