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1.並松村から思案する

文久二、三年には、庄屋敷村のをびや神様の名が、次第に大和国中に高まるにつけ、金銭の無心を言う者も出て来た。並松村で稲荷下げをする者が来た時は、先方の請いに委せて二両二分を与えられた。文久二年頃の事である。  『稿本天理教教祖伝』p44 

今回、読み深め、味わっていきたい一文はこれです。

上の一文を読み、ふと思考をめぐらせていると、尊き教祖のひながたに感じ入り、感動を覚えたのです。


文久という時代


教祖50年のひながたを、真っ二つに分けると、

前半分が貧のどん底の時代、教祖を狐憑きなどと罵り、人々が寄り付かなかった時代であり、

後ろ半分は、教祖に慕い寄る人がドッと現れてくるが、同時に、反対攻撃の道中をお通りに下された時代、


と言える。

文久時代は、このちょうど真ん中

すなわち、教祖のうわさが広まり、初めて信者が出来てきた道の黎明期であり、反対攻撃の幕開け時代でもある。


ところが、ある教祖伝研究者の調べによると、草創期の信者、文久時代に信仰した人は、わずか4人ほど
西田伊三郎先生、村田幸右衛門先生、辻忠作先生、仲田儀三郎先生らである。


だとすると、この頃、教祖にたすけられた人は少数だったのか。
4人しかたすからなかったのか。


そんなはずはない

私は、この文久時代には、既に相当大勢の方々が教祖にたすけられていたと想像する。


同業者からの僻み


その根拠が、上の史実である。

記録に残る最初の反対攻撃

並松村から稲荷下げをする者がお屋敷にやってきて、教祖や周りの人々に、
自分達の仲間入りをせよ、と難題を突きつけに来たのである。

これは何を意味するかというと、いわば、自分たちの縄張り争いである。
顧客を奪われるという僻みや妬みがその出発点なのだ。

彼らは、稲荷下げという宗教行為によって人を集め生活をしている。
教祖を同業者とみなし、自分たちの客を奪うなら、ちゃんと国に許可を貰ってからやれ、というような言いがかりなのだ。


教祖の名声が高まると、たすけを請う者は、次々とお屋敷に吸い寄せられていく。
彼らは、自分達にたすけを求める者が減り、今後の生活に脅威を覚え始めたのだ。


並松村は、現在の法隆寺の近く。
おぢばから西方10キロほども離れた村であるが、もし、何ら脅威に感じない程度なら、わざわざ遠方から、言いがかりをつけに来る必要はない。

つまり、
相当距離のある村からも脅威に感ずるほど、教祖の道が広がっていた事を物語っている。
それほど多くの人が、教祖にたすけられていた証拠といえる。


たすけっぱなしのひながた


教祖にたすけられ、感謝した人は大勢いただろう。
御恩返しにお礼の品を持っていった人もあったかもしれない。


しかし、信仰したのは、たった4人ほどであった。
文久時代から信仰しはじめた、という名前はほとんど残っていないのである。


私はここに、尊きひながたを拝したのである。
教祖御自身が、たすけっぱなしのひながたをお通り下さっていると。

にをいがけをさせて頂く時、つい、「どうすれば繋がってもらえるか」
「信仰してもらえるか」などと考えてしまう。


あの手、この手と、喜んで貰えるよう心を尽くすが、もし、繋がって貰えなかった時、失望、落胆してしまう。裏切られたような気分にさえなる。


しまいには、自分にはおたすけは無理だ。にをいがけは向いていない、などと自信を無くすこともしばしば。


そんな時、このひながたが大きな心の支えになるのである。


教祖は、見返りの求めない、たすけっぱなしのひながたをお残し下された。


たすけた者が、信仰しようがしまいが、次々と人だすけにいそしまれた。


ほんの一人や二人、上手くいかなかったからと言って、諦めていては申し訳ない。

ほんの一年や二年、にをいがかからなかったと言って、時代のせいにしては面目ない。


見返りを求めるのではなく、ただただ、目の前の人に真実を尽くす。
この心がけが、教祖のひながたに近づく道かもしれない。



教祖伝の一文から、そんな思いを巡らせていたのである。

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