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10.「そうかや。」

『稿本天理教教祖伝』 p285
 教祖は、眞之亮の方へ手招きをなさって、
「お前、淋しかろう。ここへおいで。」
と仰せられた。これに応えて、眞之亮は、ここは、警察でありますから、行けません、と、お側に付いて居るひさから申上げてもらった処、教祖は、
「そうかや。」
と、仰しゃって、それからは、何とも仰せられなかった。
(第九章 御苦労 )



いつ頃だったかは忘れた。

家族と食卓での会話で、父親が話していた言葉が印象に残っている。


「教祖伝を読んでいたら、何度か教祖の『そうかや。』 って言葉が出てくるやろ。 俺はあの言葉が好きやなー。」

その時はまだ、よく分からなかった。
ただ、なぜその一言を好きになるのかと疑問に思ったので、今でも覚えている。

時が経ち、ふと思い出してみると、なるほど含蓄深い一言だと思う。
今更ながら、父の気持ちが少し共感できたような気がするのだ。

「そうかや。」

たった一言のお言葉だが、この一言の中に、教祖の月日のやしろたる威厳さや、人類の母親たる温かい親心を感じることができる。


  ◆


時は明治十九年。
心勇講(敷島大教会の前身)の方々が、抑えきれない勇み心から、どうでもおつとめを勤めたいと、村田長平宅の二階でてをどりを始めた。

ところが、直ちに巡査に見つかってしまい、これが機縁となって、教祖、眞之亮をはじめお屋敷の者数名は取調べを受けることとなる。

その夜御一同は、分署の取調室で夜を明かされた。上の会話は、その時の取調所の板の間で交わされた会話である。

おそらく教祖は、「お前、淋しかろう」と、眞之亮を気づかっての仰せであろう。ところが場所が場所であったので、眞之亮は「行けません」とお断りした。

すると教祖は、
「そうかや。」
とだけ仰って、それからは何とも仰せられなかった……。

教祖伝をもう三頁ほどめくると、同じようなお話が出てくる。

 ある日、菓子売りの通るのを御覧になって、
「ひさや、あの菓子をお買い。」
と、仰せられた。何なさりますか。と、伺うと、
「あの巡査退屈して眠って御座るから、あげたいのや。」
と、仰せられたので、ここは、警察で御座りますから、買う事出来ません。と答えると、
「そうかや。」
と、仰せられて、それから後は、何とも仰せられなかった。
『稿本天理教教祖伝』 288-289頁

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教祖は、たとえ警察の取調室であろうが、普段と少しもお変わりない。たとえ自分を懲らしめようとした者でさえ、誰彼の隔てなく愛情を注がれる。

どんな環境であれ、どんな人であれ、何の拘束もお受けにならない。
まさしく「月日のやしろ」であらせられる証左であろう。


  ◆


しかし、ここで注目したいのは、教祖のひながたの親たる一面である。

教祖から発せられるお言葉は、ただの老婆の言葉ではない。神様のお言葉である。それを眞之亮やひさは、「できません」とお断りしているのだ。

私が考えさせられたのは、それに対する教祖の返答態度である。
何の反論もすることなく、ただ一言 「そうかや。」と仰せられただけであった。
ここに、尊きひながたの一面を拝したのである。


私自身も、一人のようぼくとして、教祖をお慕いし、全ての事柄において、「教え通り」に判断していこうという決心である。

物事の判断は、教祖のお言葉を頼りに。
そう考えて導き出した自分の考えなら、たとえ人と意見がぶつかったとしても、「こっちは教理に基づいて判断しているんだ」と意地を張ってしまう。


  ◆


しかし、それは本当に正しいのだろうか。

教祖は、「できません」と断られた時、

「私は、神様の言葉を言っているのです」
「神の言葉に、千に一つも間違いはない」
「あなた達の為を思って言っているのですよ」

などと反論し、自分の意見を突っ張られたのではなかった。

ただ一言、 「そうかや。」と仰せられただけであったのだ。


もし私なら、「お菓子を買ってあげる」など、人の為に良い行いを計画した際、誰かに反対されたら、腹が立ってしまうだろう。
しかもそれが、教えに基づいて判断したことなら尚更。ムキになってしまうこと間違いない。

ところが、教祖のひながたは違った。

「そうかや。」

と仰せになるだけで、その後は何とも仰せらなかった。
何とも母親らしい、あたたかな温もりを感じるのである。

理を貫くことだけが正しい訳ではない。
教祖のような、物事を大きく受け入れる寛大な親心こそ、本当の「教え通り」なのかもしれない。

おそらく父も、そうした意味で、このお言葉が好きだったんじゃないかな――。


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