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4.お針子をとられた。


新型コロナウイルス第一波の感染は、
少しずつ抑えられ、
中止していた各会の活動も再開が検討されつつある。

しかし、何事もなかったかのように、
ただ元の形態に戻すのは、これほど勿体ないことはない。

親神様は、
深い思惑から、コロナの事情をお見せ下さったと拝する。

それぞれの行事は、何のために催されていたのか。
本来の目的は何だったのか。
この機会に改めて思案することは、
神様のメッセージに応える一つの動きであろう。

どんな状況であっても、どんな立場であっても、
教祖は、その歩み方のお手本をお示し下さっている。

今回は、
教祖がお針子をとられた足跡を偲ばせて頂きたい。
狭義的な私解になるかもしれないが、
私はここに、各会の活動再開など、
これからの歩み方のヒントが示されているように思うからである。


『稿本天理教教祖伝』p31~32
嘉永元年、教祖五十一歳の頃から、
「お針子をとれ。」
との、親神の思召のまにまに、数年間、お針の師匠をなされた。憑きものでも気の間違いでもない証拠を示させようとの思召からである。
 又、秀司も、寺子屋を開き、村の子供達を集めて、読み書きなどを教えた。  (第三章 みちすがら) 


嘉永年間のお屋敷の様子


まず、
嘉永時代のお屋敷の様子を想像してみよう。

嘉永元年とは、
教祖が月日のやしろにお定まりになった天保九年から、
ちょうど十年目。
物やお金をどんどん施され、
その行いは親戚や知人に理解され難く、
世間から嘲笑を浴びていた時代である。

教祖を狐狸の仕業と疑い、
狂気の沙汰とあざ笑っているようでは、
いつまで経っても、たすけ一条の道はつけられない。
よって教祖は、
  
 「憑きものでも気の間違いでもない証拠を示させよう」
との思召から、
お針子をとり、裁縫の師匠をお始めになった。
また、長男の秀司先生も、
村の子供達に読み書きを教える寺子屋をお開きになったのである。

これは、近隣の人々にとって、大変喜ばれたことであろう。

お屋敷のある大和地方は、草深い田舎村。
読み書きはおろか、裁縫を教えてくれる師匠など滅多にいなかったのだ。
村の人々は、必要に迫られては、
中山家の悪評をひっくり返して、
一人また一人と、お屋敷にお世話を請うようになったのである。

教祖に親しく接してみれば、
狐狸の仕業という馬鹿げた疑いは、容易に解消されていった。

それまで誰一人訪れることのなかったお屋敷に、
次々と入門者が増えていき、
若い娘や子供達の笑い声が賑やかに聞こえるようになったのである。


先入観を排する工夫

こうした史実は、
現代の私たちにとっても、大切なひながたであると悟らせて頂く。

現代日本における宗教のイメージは、
決して良いとは言えないだろう。

「日本人は宗教アレルギー」とまで言われるように、
宗教に対しては、
 「怪しい」「不気味な」「出来るだけ関わらない方が」
という印象を抱くのが多数派である。

殊に、新興宗教に至っては、それが顕著である。

「鰯の頭も信心から」などと蔑まれ、
勝手な先入観から、頭ごなしに壁を作る傾向は否めない。

お針子をとられた教祖の足跡は、

こうした偏見、疑いを排するひながたをお示し下さったのではないだろうか。


各地の教会で、塾を開いたり、
様々な行事を展開されているところは多い。
その理念を、教祖のひながたをもとに思案することは、
誠に尊いことだと思う。

私はかつて、
全ての行事は、にをいがけが目的であると、
活動を通して信仰につながらなければ意味をなしていない、
と考えていた時期があった。

しかし、教祖のひながたを拝する時、
そういった堅苦しさは窺えないのである。

事実、
嘉永六年には、母屋を取り毀ちになり、
中山家は再び、貧のどん底への道を歩まれた。

お針子はもとより、誰一人寄り付かない道を、再び敢行されたのである。
 


様々な活動は、

まず教会の敷居を下げて、気軽に足を運べるような工夫を。

和やかな雰囲気を通して、宗教に対する先入観を取り除こう。


こういった理念が、
教祖ひながたに習う大切な心掛けなのかもしれない。


針から眞、そして芯へ

しかし、ここで一つの疑問が湧いてくる。

再びどん底の道を歩まれては、
折角集まった人々に離れられ、
疑いを晴らし気の間違いでないと示した証拠も、
無意味だったではないかと……。

当初、私はここに疑問を抱いていた。

ところが、
教祖の思惑は、もっともっと深いところにあったのである。

もちろん、先入観や偏見を除くひながたと捉えて問題ないと思う。

しかし、もっと本質的な、
どうでもお針子をとらなければならない神の思惑があったことに気づかされたのである。

お針子の中に、辻忠作先生の姉・辻こよという人がいた。

教祖の娘・おはるさんの同年代であるおこよさんは、
おはるさんの心優しさに惹かれ、
是非、自分の従兄である梶本惣治郎の嫁にと縁談を勧めたのだ。

これが機縁となり、おはるさんの縁談はまとまった。
その後、その夫婦の間に、眞之亮様がお生まれになったことは周知の通り。
後に中山家の人となり、道の芯として活躍された、初代真柱様である。

おはるさんの縁談がまとまったのも、
お針子によって、中山家の悪評が一時おさまっていたからである。

お針子から、眞之亮様へ、そして道の芯へと歴史がつながっていく。

教祖のおつけ下さるつとめ完成の道、
たすけ一条の道には、どうでも欠かせなかった。

お針子をとられた史実の重要性を感じずにはいられない。


徳分を活かして


さて、今一度、ひながたを辿る我々の立場に思案を戻そう。

教祖はお針子をとられたが、
もちろん私達が、裁縫にこだわる必要はない。

『稿本天理教教祖伝』(第二章 生い立ち)において、

六歳の頃には、針を持ち始め、糸紡ぎをまね、網巾着を編み、糠袋を縫うては、好んで近所の子供達に与えられた。(中略)
針仕事は、師匠につく事なく、母の膝下でひとりでに上達されたが、一度見たものは、そのまま型をとって細工物に作り、十二、 三歳の頃には、大巾木綿を裁って、思うままに着物を仕立てられ、機織りも、人並優れて織りこなされた。(11ー12頁)

と記されているように、
教祖は、幼少の頃から、針を持つことに秀でておられたのである。
秀司先生が寺子屋を開かれたのも、
もともと勉学に長けておられたからだ。

昨今、謳われている 「徳分を活かしたおたすけ」ということは、
教えより思案を致す時、
こうした史実に、そのひながたが示されていると言える。

お道もこれから、様々な活動が再開されていくであろう。

この機会に改めて、
教祖のひながたを便りに、本来の理念をふり返り、
徳分を活かしたおたすけ・にをいがけに力強く踏みだしていきたい。



それにしても有難いことである。

我々ようぼくが、
対社会との接点を思案する上で、
教祖がこうしたひながたをお残し下さっているということ。


やはり、どんな立場、どんな状況であっても、
我々には、歩むべき陽気ぐらしのお手本がある。
これほど心強いことはない。

信仰者には、教祖のひながたの道がある。

信仰とは、本当に有難い。

R183.6.30

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