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6.こかん様の浪速布教


九月は、にをいがけ強調月間。

今年は、
新型コロナウイルスの影響により、
従来のように、
積極的に外に出ることは難しい状況かもしれない。

これからは、
どういう方法で、
どう判断し動けば良いのか、
自問する毎日である。

しかし、
たとえ環境が変化しても、
決して変わらないものもあると思う。

今回は、
にをいがけ」について、
ひながたを元に思案していきたい。

本教の伝道史、
第一ページを飾っているのは、
こかん様の浪速布教といえよう。

道を信仰する者であれば、
誰しも知っているお話だが、
一体ここから何を学ばせて貰ったら良いのか
どうお手本とさせて貰えば良いのかは、
中々難しい問題である。

そこで、
「とき」「ところ」「ひと」
という三つの観点から史実を偲ばせて頂き、
にをいがけのひながたを思案してみたい。



とき


こかん様が浪速布教をされた「とき」は、
嘉永六年。
父・善兵衞様がお出直しになった年である。

こかん様のお気持ちは、
いかがだったであろうか。

長男・秀司先生と違い、
こかん様にとっては、
物心つかれた時から、
お母様は神様であった。

どうやら自分の母は、
周りの人と少し違う。
母に対する世の風評は冷たかったのである。

「家形を取り払え」

「瓦下ろせ」

などと威厳たるお姿で、
神の思召を実行される母親。


子どもであれば、
お母さんに思いっきり甘えたい時もあったに違いない。

しかし、
月日のやしろとしての神聖な御態度に、
母への甘えは、
はたと阻止せられたこともあっただろう。

その点、
人一倍子煩悩であったお父様には、
どれほどの信頼を抱いておられたことか。
こかん様にとって、
最も心の支えとなるお方であったことは想像に難しくない。


その大切な父親が、
お出直しになったのである。

こかん様のお気持ちは、
察するに余りある。

これ以上ないという悲しみのどん底、
その涙も乾かぬ時に、
親の言う通り、
神名を流しに行かれたのである。

この御足跡は、
非常に考えさせられた経験がある。

布教の家寮生の当時、
毎日にをいがけに出させて頂いていたが、
十二月三十一日は、
さすがに気分が乗らなかった。

「こんな日に訪れられたら、逆に迷惑だ」
などと理由をつけて、
寮内で休んでいると、
ふと、こかん様のお話が頭に浮かんだのである。

「悲しみのどん底でも、
 こかん様は神名を流しに出られた……」。

 思いを巡らせていると、
些細な理由で渋っている自分が情けなくなってきた。

そして、
「神名流しなら出来る」
と思い直し、
はっぴに帯を締めて、
寮の門を出たのである。

すると、
よろづよ八首の一回目が終わらぬうちに、
一人のおじいさんに声をかけられ、
会話がはずみ、ご自宅へ案内された。

お住まいはボロボロのアパート。
のびのびのラーメンに、
ふやけたお米が投入された
よく分からない食べ物を出して下さった。

究極にまずかった。

でも、おじいさんとの出会い初日。
出して下さったのも、
まぎれもない親切心からである。
残す訳にはいかない……。

もはや絶体絶命。

意思とは別に、
身体的反応によるえずきは止まらなかったが、
心の中で「南無天理王命」と唱えながら、
なんとか食べきった。

数分前に
拍子木を打ちながら唱えていた神名より、
百倍心がこもっていた(笑)。

当時は、
初参拝活動の最中であったので、
教務支庁へ初参拝して下さり、
その後もおたすけに通わせて頂くようになった。

大晦日でも、こんなことがあるのか…。

「たとえ、どんな状況でも」。
こかん様の足跡に勇気づけられ、
御守護を実感した出来事である。



ところ


続いて、場所について思案してみたい。

こかん様が神名を流されたのは、
お屋敷の周辺ではなかった。

片田舎の大和地方ではなく、
わざわざ大和河内の国境十三峠を越え、
十里ほど離れた大阪の繁華な街へと出向かれたのである。

当時の大阪は、商業の中心都市。
道頓堀には、
芝居見物に来る支配層から、
その日暮らしの零細な下層民に至るまで、
幅広い階層の多種多様な人々が暮らしていた。

『天理教伝道史』の著者、
高野友治氏は以下のように述べている。

私の伝道論からいうと、人間の動かざるところには道はつきにくく人間の動いているところにはつきやすい。(『天理教伝道史[Ⅰ]』27頁)

本教の伝道は、
一度大阪へ道がつき、
そこから全国に伸び拡がっている。
こかん様の尊き種まきを感じずにはいられない。

にをいがけの場所に悩むなら、
人の大勢集まるところを選択するということも、
前向きな判断の一つかもしれない。


ひと


嘉永六年当時、こかん様は十七歳であった。
今でいう高校二年生、
JKの年頃である。

小娘のようなお年頃で、
深淵なる御教えがちゃんと心に治まっていたとは考えにくい。

そもそも
「おふでさき」「みかぐらうた」など、
まとまったご教理を教えられる以前である。

「私はまだ、天理の教え、よく分かりませんし、このような身分で、遠くへ行く自信もございません。」


こうお答えになってもおかしくないだろう。
ところが、
こかん様は親の声を素直に受けて実行なされたのだ。

「私はまだ若いから」
「女ですから」
「遠くへは」
「教理もよく分かりませんし」……。

つい思い付きそうな言い訳だが、
こかん様の尊きお手本が、
私たちを勇気づけて下さっているように思うのである。



求められず積極的に



以上、好き勝手に自身の悟りを述べてきた。

しかし、
中山正善著『第十六回教義講習会』を読ませて頂くと、
自分の思案がいかに浅はかであったかを反省させられたのである。

第十六回教義講習会 (2)

二代真柱様は、
こかん様の浪速布教の史実について、
こうお述べ下さっている。

にをいがけという事柄、ここで一番問題にしていただきたいのは、大阪であったとか、十三峠を越えたとか、こかん様であったとかいうような問題よりも、求められずしてこちらから積極的に新しい分野へ向かって、神名を流しにかかられておる事柄であります。(『第十六回教義講習会―第一次講習録抜粋』162頁)


 にをいがけに関しては、
「求められずしてこちらから積極的に」

ここに注目すべきことをご指摘下さっている。

他のものはみな、をびや神様あるいは、たすけていただきたいとか、いろんな事柄があって、教えを請いに来たり、求められたが故に行動をとって、どこそこにお出かけになったということがありますが、このことだけが、その事柄がなくって、親神様の思召のままに、にをいがけにお出かけになったということになってあるのであります。今後においてもたびたびありますが、あるいは安堵へ行かれたとか、あるいは大豆越に行かれたとか、いろんなことがありますが、すべては先方の請いに応じて、ということであります。(同162―163頁)


教祖の道すがらは、
先方の請いに応じてご行動なさることがほとんどであるのに対し、
神名流しにおいては、
求められずしてこちらから積極的に御行動なさっている。

にをいがけという上において、どなたがどこへというよりも、まず初めて積極的に行動に出ておられるという意味で、これは布教の歴史の上から大切な点である、かように考えます。(163頁)


にをいがけの方法は何だって良い。

立場や環境がどうであれ、
まずは「積極性」を大切にしていく。
これが、
史実より学ばせて頂く大切な点であると仰るのである。

私はハッとさせられた。
中身さえ磨いておれば、
積極性はさほど重要でないと考えていたからである。

日頃は、自分に甘い私である。

せめて九月は
「積極性」を大切に一歩踏み出したい。

それが、ひながたを辿る道であると信じて。

R183.9.1

『稿本天理教教祖伝』 p13
 善兵衞の出直に拘らず、その年、親神のお指図で、こかんは、忍坂村の又吉外二人をつれて、親神の御名を流すべく浪速の町へと出掛けた。父の出直という人生の悲しい出来事と、世界たすけの門出たるにをいがけの時旬とが、立て合うたのである。(第三章 道すがら)

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