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23.阿呆になる


 前回まで、貧に落ちきるひながたの道を「裸になる」というテーマで思案してきました。

 そして、物の裸・形の裸だけでなく「心の裸」が重要ではないか。
 そんな考察を進めてきました。

 では、一体どうすれば「心の裸」に近づけるのか。
 私は、ひながたを思案する上で二つのポイントを見出しました。

  ① 阿呆になる。
  ② 欲を忘れる。

「心の裸」を目指すことは、決して簡単ではありません。
 けれども、この二点が手掛かりになるのではないかと考えたのです。

 そこで今回は、「阿呆になる」という思案から始めたいと思います。


おさしづ  明治三十二年二月二日 夜

 それまで参詣も無く、日々事を運ぶという事一つも無かった。世界からあんな阿呆は無い。皆、人にやって了て、後どうするぞいなあ、と言われた日は何ぼ越したやら分からん。

(前に一同揃いの上願い出よとのおさしづに付、本部員残らず打ち揃い願い出おさしづ)



 お道ではよく「阿呆は神の望み」といわれます。
 出典は詳しく存じ上げませんが、増井りん先生の手記に、こんな一節があります。

神様、私どもはあほうでございまする」と申したならば、「さようかえ、お前さんはあほうかえ。神様には、あほうが望みと仰しゃるのやで。利口のものはつけん。……(後略)

 道友社編『誠真実の道・増井りん』97-98頁

 また、二代真柱様のお話の中にも、

子供の頃、母や父から、「教祖はあほうになれとおっしゃった」と聞きました。

中山正善著『陽気ぐらし』108頁

とあり、教祖が「阿呆になれ」「阿呆は神の望み」と仰せられていたことは、おそらく間違いないでしょう。

 ただ、この「阿呆になる」とは一体どういう意味なのか。

 「勉強しなくていい」
 「ただすっとぼけておけばいい」、

 そんな意味ではないはずです。

 「理屈っぽくなるな」
 「深く考えないことが大切」 

 そんな意味でしょうか。

 これも少し薄っぺらいように思います。

 果たして、教祖の仰せられる「阿呆になれ」とは、どう理解させて貰ったら良いのでしょうか。




 一般的に、「阿呆」や「馬鹿」という言葉は、あまり綺麗な言葉ではありません。人を軽蔑したり悪口を言う時に使います。

 普通、人は賢くなることを望むのです。

 苦労して勉強し、知識や能力を身に付け、偉い人になることを目指します。それは、人間の社会生活において、賢い人ほど有利だからでしょう。
 偉い人ほど重要な立場につき、大きな任務を任され、給料も高い。
 だからこそ親は、子供に「勉強しなさい」と仕込むのであり、「阿呆になる」ことを避けるのです。



 しかし一方では、 「阿呆」や「馬鹿」という言葉は、必ずしも悪い意味で使われていないことも発見します。

 たとえば、「釣りバカ」という言葉がありますが、これは、食事も忘れるほど釣りに没頭している、四六時中釣りのことばかり考えている、なんて人のことを呼びます。

 この際の「バカ」は、さほど悪口には聞こえません。「よほど夢中になっている」とか「他は何も考えられないほど」といったニュアンスを感じます。

 「ばか正直」 「親ばか」 「馬鹿騒ぎ」なども同様でしょう。

 また、関西人との会話で、「お前はアホみたいに〇〇して」なんて発言を聞いたことはないでしょうか。
 この際の「アホ」も、あまり悪気を感じません。「アホ」を比喩に用いている訳でなく、「必死になりすぎ」といった表現に近い。


 総じて思いますに、「馬鹿」や「阿呆」という言葉には、「とにかく夢中になっている」といった含みを感じます。軽蔑の意味よりも、「他のことは視界に入らないほど」というような、露骨な真剣さを表現しているように思うのです。



教祖の仰せ下さる「阿呆」も、こうしたニュアンスに近いのかも知れません。

 こうと決めたことは、それだけを見つめてとことん突き進む。他人の目線や損得勘定など、いらんことは考えない、視界に入らない。「阿呆」になって、ただただひたすら親神様の思召を求めることだけ。誰に何を思われようと、人だすけ、世界たすけのことばかり夢中になっている。

 そんな姿勢が、教祖の仰せられる「阿呆になれ」の意味ではないでしょうか。



 こうして考えてみると、教祖のお言葉は誠に含蓄深く、この「阿呆になれ」という言葉が、今の私に最も足りない心遣いだと反省させられます。

 親神様の御教えもそこそこに、他のいろんな分野に目がくらみ、賢くなることばかり考え利口になっていく自分。

 教祖の通られたひながたの道は、そうではありませんでした。


 ただ一点、「世界一れつたすけたい」。

 貧に落ちようが、嘲笑されようが、
 ただひたすら「世界一れつたすけたい」。

 まるで、 「世界一れつをたすける」ことに没頭される余り、その他のことは何一つ頓着されていないかのようです。


世界からあんな阿呆は無い。

(前掲 おさしづ)


と言われる中を通って下さった教祖。
 まさに、私たちに「阿呆になれ」と仰せられた尊きひながたの道であります。

 文章で書くほど簡単ではありませんが、私たちも、我欲も忘れてしまうほどの「世界だすけ馬鹿」を目指したい。

 ほこりを払う努力はもちろんのこと、ほこりの心に頓着できないほど、陽気ぐらしに没頭する「阿呆」に。これが、心の裸への一歩ではないかと思うのです。

理屈ぬきに、親神の思召のままにニコニコ暮らせる人―それが親神の望まれるあほうな人ではないでしょうか。

前掲『陽気ぐらし』111頁

R185.7.1

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