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『自由と不自由の話。』

今日は『自由と不自由の話』。
すでに重ためのテーマで読む前からげんなりしてしまいそうだがどうか後悔はさせないから読んで欲しい。

これを読んでる皆さんは自身が自由であるか不自由であるかは判断がつくだろうか。私自身、自由なのか不自由なのか、問われればうーんと悩むこと必至だろう。だから別にその判断がつく必要はなくて。(じゃあなぜ聞いたんだ)

ここは一つ昔話を。
私は離島の小学校、入学時全校生徒11人。同級生はいない中たった1人の入学式だった。
その後人数の増減はありつつも私の同級生ができることはなく。たった1人の卒業式を迎えるまで、何もかもがNo. 1の少年時代を過ごした。
ところが中学校、同級生11人。世界が一変した。
学業、スポーツ、私生活、その全てに順位がつき、私は何もNo. 1だったわけではなく、オンリーワンなだけなのだと気がついた。
私が享受していた自由が自分勝手だと気づいた。

足並みを揃えるという言葉があるが、それができなかったわけではないと思いたい。ただ知らなかった私はいうところの自己中になっていたわけだ。
集団の中に入ればそれを知らないことは罪であり、染まらないことは自己中の一言でまとめられ省かれる。そんなことを知るための時間を過ごした。

そして今。
私は犬と暮らしている。愛犬のBDだ。
彼は仕事中フリーでついてくる。時折いなくなることもあるけれど、世間一般のイヌ達の境遇から考えれば割と『自由』な暮らしをしているのだと思う。
しかしこの自由は住んでいる環境が故の自由であり、享受させてもらっている自由なのだ。

さて、ここまで喋っていよいよ本題の自由と不自由の話。
自由とは環境とその他モラル(ルール)があって発揮されるものなのではないのか。そう考えるわけだ。
自分のやりたいこと、成し遂げたいこと、目標に向かって進撃すること。それらをモラル(ルール)に則って行うことが『自由』の本質ではないかと思う。
そこにモラル(ルール)が存在しない場合、外部の人間からいわゆる『自己中・自分勝手』だと断罪され、その非難に対し自身は『不自由だ』と感じてしまう。これはなんとも核心に迫った説ではないかと私は鼻高々である。

自由を求めるからこそ周りへの配慮とルールの遵守を忘れない。なんとも皮肉のように感じるがそれこそが自身の自由への近道なのではと思う。

なんとも中途半端、モヤモヤが残るような終わりに非難轟轟となってしまっては大変心苦しいが、それこそ言論(表現)の自由というやつの隠れ蓑にすがりたいところである。

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