北畠顕家卿の足跡を訪ねて(3)

早速ですがタイトル詐欺です。
今回訪れたのは白河小峰城。北畠顕家卿本人の足跡では
なく、その従臣結城宗広公の足跡です。この城も正確には
宗広公本人ではなく、その息子の結城親朝公により1340年
に築城されたらしく、宗広公も目にしてはいないと思われ
ます。

訪れた目的は、城跡公園内の資料館。北畠顕家卿に関する
あわよくば本人自筆の書状なんぞがあれば見たいものだと
思い…結果的には目的に合う物はありませんでした。
そのかわり、結城宗広公自筆の書状を見ることができ
ました。

解説によると、正中の変の際に宗広公が息子親朝公に
あてて送った書状。この書状を見るといろいろなことが
分かる。

親朝公は蝦夷による反乱鎮圧のために津軽に出陣中
だった。奥州藤原氏の時代を過ぎ、鎌倉時代後期になって
も、まだ津軽には蝦夷が存在していたということか。

書状は、内容・体裁の両面において整然としたためられて
おり、「逃げ上手の若君」あるいは「太平記」で表現
されているぶっ飛んだ宗広公のイメージとの違いが
あった。やはり太平記特有の脚色だったのか…と思い
何となく安心。

逃げ上手の若君では135話に登場するシーン。
顕家軍が略奪を行ったことで結城宗広がお咎めを受け
そうになる。そのときの落ち着いた宗広像と合うなーと
思わせられる書状でした。

資料館には「一部を除き、撮影および個人のSNS・ブログへの掲載可」と掲示されておりましたので、今回その
書状を撮影したものを掲載することも可能ではありますが
私自身の判断により掲載はやめておきます。
調べた限りでは、この書状はweb上で見つけることが
できませんでした。考古学的にはそれほど重要という
位置付けはされてないのかもしれません。興味のある方は
是非現地に行って見てください。

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