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逆境はどこへ②



続き



ピナマール到着


バスに揺られる事5時間、目的地のピナマールに到着した。


スーツケースを受け取り、ロビーに向かう。


ここで私は、パイサと落ち合った。


パイサは、今回練習参加をするチームの代表者だ。

開始早々怒涛に降り注ぐスペイン語を「Si」と「bien」、そしてGoogle翻訳の使い回しで上手く交わす。


最初に街のシンボルであるビーチを見た後、貸してくれる家に案内してもらった。


ベッドルーム2つ、コンロは4つ、都内ならば軽く20万は越え得る間取りの部屋だ。



「自由に使っていいぞ、じゃあとりあえずまた。」



↑家から徒歩10分にあるビーチ。昨年友人とともに訪れた石川県の内灘を彷彿とさせた。




時刻は21時。


バス移動の疲労感、最難関タスク完了の安堵感、新フェーズ開幕に対する高揚感、これらの不釣り合いな混ざり合いから寝ようにも寝れないままベッドに横たわっていたその時、WhatsAppに1件のメッセージが来た。


「今からアサード食うか?」



10分後、パイサの友人(エクトル)と息子(ニコ)が迎えに来た。


↑アサード。人間よりも牛が多いと言われているアルゼンチンの牛肉は、かなり質が高い。


味は、最高だった。


会話内容は全く分からない。だがしかし、サッカー関連のワードが頻繁に出てきているという事は分かった。

capital federalにいた時点で薄々と感じていたが、この国とフットボールの結びつきは、決して言語という記号を通して表現する事はできない。


日付が変わった頃エクトルの車で自宅に帰宅。



そのままベッドに直行し、意識を失うように眠りについた。



試合


3日後、再びWhatsAppに1件のメッセージ。

「明日の試合に出るぞ」


とうとうこの日が。

しかし高まる感情とは裏腹、最後に体を動かしたのは資金調達活動を始める前の11月末。試合出場は8ヶ月ぶり。身体が対応してくれるか大いに心配であった。

当日、パイサの車に乗って試合会場に向かう。


途中でパイサの職場に寄り、フルーツを回収。


試合会場に着き、ロッカールームに入る。この時私は、昨年辛抱強く醸成させ続けた覚悟たるものに最後の念を押した。


最初は全く見向きもされないかも知れない。「チーノが来る場所じゃない」と言われるかもしれない、蓋しこの部屋に足を踏み入れた所から、私に与えられた人生の命題を解明する旅路がはじまるのだ。

どんな罵声・仕打ちにも耐える準備を、心構えをしていた。

しかし、予想と大いに反し、非常に温かく迎えられた。彼らは「レセルバ(セカンドチーム)」というカテゴリーに所属しており、年齢は皆16~20歳だった(一歳そうは見えなかった。皆、驚くほど大人びている)。

更にここで1つ幸運なことが起こった。3週間前に加入したパラグアイ人選手が、英語を話せたのだ。彼が奇跡的に英語を話せるおかげで、監督の指示などは全て通訳してもらえる事ができた。


試合結果は1-7。

このような無惨な結果は、6年前日体大時に炎天下の中行われた試合で11失点した時以来である。ただ当時抱いたような途方もない虚無感は一切なく、長いトンネルを抜け、遂にフットボールのピッチに戻れてこれたという感動を噛み締めていた。

その後そのままトップチームの試合に呼ばれたが、出場は最後の5分にとどまる。

長い1日を終え、車に戻ると先に乗っていたメンカ(パイサのもう一人の息子。10歳)が「セイナ、めっちゃ良かったぞ。きっとプリメーラ(トップ)でプレーできるぞ」と言ってくれた。全くベストパフォーマンスでなかった事にもどかしさも感じつつ、ありがたく受け取った。


この日も帰宅後、気絶するように眠りについた。


加入


その後1週間の練習参加を経て、チームへの加入が決まった。


カテゴリーはおそらく5部か6部相当(ただ、年末のトーナメントを制すると3部であるFederal Aに昇格。リーグ構成は未だ把握できず。)

実は、既に他GKの加入が決まっていた。監督が連れてきた33歳の元プロGKで、Deportivo Riestra(マラドーナがコーチまたは監督をしていた)でのプレー経験もある。

出場するのは難しいと伝えられたが、左程悩む事なくこのチームに加入する事を決めた。

高校から大学まで9年にも及んだ型習得フェーズを終えた私に求められているのは、その型を公式戦という準真剣勝負の場で発揮する事だと心得ている。

しかし、現在の私は赤ちゃん同然。言語が解らないなんざ可愛いもんで、その言語を通して伝達される主義・信条、それらが形成した文化、そしてその文化を形成するに至った歴史、それらが創出した国家など、全てにおいて無知である。


現時点の私にとって、コミュニティを得ることの方が優先順位は高かったが故にこの決断を下した。


ただし正直なところ、これ以上新規開拓のエネルギーが残っていなかった。


兎にも角にも約1年にわたるトンネルを抜け、いよいよ本当の意味での門出となった。


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