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こんなに水が流れてるのに、海はよくあふれないよね。

そのひとと初めて会ったのは、台風の日だった。

風と雨が京都を洗った。市内中の雨水が鴨川に注ぎこみ、ふだん中州で日向ぼっこをしているカモたちは、土手の片隅で身を寄せていた。土手には、根っこから倒れている桜の木があった。数本おきに倒れているから、不揃いな歯並びのようだった。

わたしはレインコートをかぶって、自転車で鴨川を下っていた。

土手の一部が欠けていた。流木は、そういう淀みにたまっていく。泥っぽい水面に、折れた枝葉が積み重なる。台風って、川をめちゃくちゃにするんだな……台風にはしゃいでいた気もちが薄れていく。どこか現実離れした感覚で、鴨川を見ていた。

「こんなに水が流れてるのに、海はよくあふれないよね」

ふいに背中越しに声をかけられた。70歳くらいのおじいさんだった。手には不格好なビニール傘をもっていた。「折れちゃってさ」なんて笑っていた。

「不思議じゃない? いつもの何倍も水があって、台風だから、いろんな川でも同じでしょ。海はなんであふれないんだろう」

おじいさんは、川の行く先を眺めながら言った。ぼくも一緒に眺めた。そういえば、なんでだろう。

「不思議ですね」

繰り返すしかなかった。

――そりゃ、海は広いですからね。

なんて言えるわけもない。おじいさんは、そんなことは百も承知だ。

「ちっぽけなんだよね、あたしらは」

おじいさんは、よく見ると腰が曲がっていた。

「目の前でこんなに水があっても、海はさ、ぜんぶ呑みこんでしまう。大きさがわからないくらい、大きいんだ」

大きさのわかるものって、じつは大きくないんだよ、とおじいさんは言った。完璧な答えだと、わたしは思った。

サポート金額よりも、サポートメッセージがありがたいんだと気づきました。 読んでいただいて、ありがとうございました。