『モナ・リザ』は「美しい」かーー古い作品と古典の違い

「どうしても『モナ・リザ』を美しいと思えないんだ」

ある喫茶店で女性に向かって言った。都内、有楽町、駅前のビル。二階の古風な喫茶店で、土曜日の午後に遅い昼食をとっていた。

「みんな美しいという。教科書でも『モナ・リザ』は美の象徴として紹介される。美しいと思いこもうとした時期もあった。でもやっぱり、あれは美しくない」

君の方がよっぽど美しいよーーという言葉は呑みこんで、続けた。

「『モナ・リザ』に触れる言説には『モナリザを美しいと思いなさい。思わなければ、あなたは異端な人だ』と迫ってくる無垢な暴力がある。それが本当に嫌なんだ」

その人は、面白いねといって先をうながした。「じゃあ、美しい絵画ってなんなの」

「カシニョールの描いた女性は美しい。彼の描く女性は、どこか物憂げで、薫ってくる影があり、でも生きている」

僕の好みだけどね、と付け加えるのを忘れなかった。

古典を楽しむには、どうしたらいいんだろうね、という話もした。

音楽でも絵画でも、古い作品が現代まで残っているのには理由がある。同時代性だけではなく、通時的な魅力をもつからだ。すなわち、多様な解釈可能性を内包しており、「わからない」要素が残っているため、どの時代でも誰かが語りたくなってしまう。

そうして補強された解釈の文脈には、「古典」というラベルが貼られる。あるひとは「古典」ということだけで言及し、自らの言葉で語ることをしなくなる。

『モナ・リザ』など、誰もが知っている古典には、そのような言及が多発する。僕はほとほと嫌気がさす。「現代に生きるあなたは、街の女性よりも、モナリザを美しいと思うのですか?」と問いかけたくなる。

そういう人は『モナ・リザ』という絵を、過去に定着した目線を無批判に借りて、知ったように話すだけだ。

古典を語るには、現代性があってこそだ。現代の目線から真摯に見つめなければ、単に古い作品でしかない。現代で解釈を再生産するからこそ、古くて新しい古典になる。

だから僕は「他人がどう思うかなんて気にしなくていいんだ」と言った。教科書にあるから美しいと思わなくてはいけない。専門家が面白いと言ったから、あの作品は面白くなければいけない……そう思う必要はどこにもない。

むしろ古い時代に作られた作品で、現代に生きるあなたに訴えかけるものがない作品は、「あなたにとって」古典たりえていない。つまらないものを誰かが「古典だから」と押し付けることも、あなたが無理に学ばなくてはいけないと考えることも間違っている。

まずは、心が動くかどうかだ。その心の動きを見つめて、自分なりに言葉を紡いでみる。そのとき初めて、古典は古典として新しさをもつ。

心が動かないなら、あなたにとって重要ではないということだし、そういう人が多数を占めるなら、その古典の寿命がきたということだ。いま古典として言及されているものは、単なる古い作品になるかもしれない。

サポート金額よりも、サポートメッセージがありがたいんだと気づきました。 読んでいただいて、ありがとうございました。