自分語りができない

親しい人と話していると、ほぼ必ず言われる言葉がある。

たとえば、「あなたに訊いてるんだよー」だったり、「きみがどう思ってるのかを知りたい」だったり、「なんで、逃げるの?」だったり、という言葉だ。

言われた瞬間、自己嫌悪に焦がされそうになりながら、ぼくは「ごめんね」と言う。

ぼくは、自分語りができない。

目の前の人が「ぼく自身」を知ろうとする質問を投げかけると、ぼくは無意識のうちにフィルター越しに応えてしまう。「たとえば、○○さんが言うには」「△の本だと」「……そんなことよりさ」なんて言いながら、自分以外の話にすり替えることで、自分語りから逃れようとする。

相手にはすぐそれが伝わる。いままでは膝を突き合わせて会話していたのに、何気なく問いかけた瞬間、目の前のぼくが遠くに行ってしまうのだ。わからないわけがない。そうして突然の奇行に戸惑いながらも、「あなたに訊いているんだよ」と再度言いなおす。

しかしぼくは、自分語りが大の苦手だ。

相手の人を信頼していないわけではないのに、なぜか自分の心を守ろうとしてしまう。どこか白々しいやりとりになる。言いなおしても、違和感がぬぐえない。

ブログやnoteを読んでくれている人にとっては意外かもしれないけれど、対面で話したり長時間チャットすればわかる。ぼくは自分の話をしない。外側の話ばかりで時間がたって、「またね」と回線を閉じる寸前になっても、ぼくがどういう人なのか見えてこないだろう。

現実の友人たちも、ネットの文章を読むまで、ぼくがどんなことを感じて生きているのか、まったくわからなかったと思う。それなりの期間、一緒に談笑しているにもかかわらず、「ぼく自身」の像はまったく結ばれない。曖昧な像を明確にしようと近づいても、逃げていく。そのうち疲れて、「こいつはそういうやつなんだな」と思う。

唇を噛んで、ぼくはその状況を受けとめる。そんな日々がずっと続いた。

自分を語る言葉と場所を手に入れたのは、ほんとうに最近のことだ。

そうして気づいたのだけれど、自分のことを語りたくないのではなくて、語りたいことでいっぱいになっているのだ。感じていることや語りたいことがいっぱいありすぎて、その奔流に押し流されていた。

たくさん話したいことがあるのに、「相手からすれば嫌かもな」「変に思われたくないな」「良い自分像を保ちたいな」と思った瞬間に、思いは言葉とつながらなくなる。思いの奔流は出口を失って、自分の中を駆けめぐる。ますます外側との回路を失う。目の前の人は戸惑いを深くする。

そういう状況は、ここ数ヵ月で終わりを迎えた。やっと、ほんとうにやっと、ぼくは自分を語る言葉を手に入れた。まだ赤ん坊だけれど、確実に手に入れた感触がある。外の世界とつながり始めた。思いを言葉に託す術(すべ)を構築し始めた。自分を飾らずに、思っていることを外側に移せるようになってきた。

赤ん坊ということは、ここから一気に成長するということだ。そのためには様々なものに手で触れて、それを口でしゃぶって、刺激を受けつづけないといけない。外の世界をハイハイして、いっぱい傷つかなければいけない。

もっともっと、自分の言葉で語る。

サポート金額よりも、サポートメッセージがありがたいんだと気づきました。 読んでいただいて、ありがとうございました。