上達とは感度があがること。

来週、居合を新人に教える。
ひとまわりも歳上のひとに教えるから、何を教えるのかを言語化しておく。何を教えるのかは、何を教えないかを明確化すると定まる。

剣を振る。これは楽しい。
なんと言っても日本刀だ。居合用だから斬れないようになっているけど、傍目にはホンモノと変わりがない。着物を着て、帯を締めて袴をはく。そして刀を腰にさす。鏡を見れば、幕末の志士である。
かっこいい。
刀を抜き出して、振りまわす。気持ちいい。たまに音がなる。爽快だ。
教われば教わるほど、成長する自分に出会う。カタルシスである。日本刀を扱えるようになるのだ! 『BLEACH』の登場人物みたいに。

こうしたプラスのエネルギーは傷つけてはいけない。エネルギーが再生産される状況を作り出すのも、教えるほうの務めである。
だからと言って、プラスだけを見るのは、武道ではない。稽古事というのは、一種の師弟関係を結ぶ。つまり、その世界に頭を下げて入りこむ。世界の「文法」を内在化させなくてはいけない。自己変革をともなうから、つらい作業になる。
この文法を教えるのは、最初が肝心だ。
初期に世界の文法へアクセスさせなければ、「居合をやっているのに居合じゃない」という状況が長く続いてしまう。そのまま数年たったとする。その人の居合は、まったくもって居合じゃないのに、自己認識としては「居合をしている」と思ってしまう。この自己認識ができてしまったら、矯正するのは難しい。間違っていることを、間違っていると認識できないからである。指摘されても、もう遅い。
「俺/私は正しいのだ」
こんな人を何人見たことか。無残な居合をすることよ。
最初なら、まっさらな状態で居合の世界に入ってくる。世界の文法を適切に教えれば、適切に育っていく。

居合には、刀を振るよりも重要なことがある。居合は古武道のひとつだから、古武道の共通認識が優先される。
それは何か。
身体の言語を理解することである。
たとえば、階段を登るとする。右足をひとつ上の段にかけて、今度は左足をそのひとつ上の段にかけて、これを繰り返すことで階段を登る。簡単なことだ。
でも「その中身を言語化して」と言われたら、どうだろうか。
階段を登る。無意識の動作が、急にゲシュタルト崩壊する。どうやって登っているのか、わからなくなる。考えたこともない。
分かっている人なら、ふたつの要素をすぐに言う。
「重心移動と筋肉(骨格含む)の利用でしょ」
ぼくは、そうだね、と言って次に進む。
重心と筋肉への意識。これが身体の言語の基礎ちゅうの基礎である。基礎は、簡単ではない。ことあるごとに戻ってくる起点だ。

「上達ってさ、感度があがることなんだよね」
ぼくのことばである。

ぼくが教えるのは、居合の文法であって、居合の形ではない。
……と思ってきたけれど、居合の形を教えないわけにはいかない。人は概念によって理解するのではなく、現実に体験することによって理解する。だから、不本意ながら、形を教える必要がある。

正座の業、一本目「前」
①左手を鍔、②右手を柄、③膝寄せて。④抜きながら立ちながら⑤横一文字に斬りつける。⑥すかさず振りかぶって、⑦真っ向切りおろし。⑧大血ぶりして納刀する。

これが形だ。
何にも言っていない、無味乾燥の形である。この形に、それぞれの剣士が命を吹き込んでいく。そうすると、形は型になる。
形と型は、遣い分ける。口頭で言うときには、混同を避けるために型=業と言ったりする。どうでもいいと思われるかもしれない。
でもこれが、意外と本質的な問題なのだ。

こういうのをわかってきたら、「文法がわかってきたね」ということになる。

サポート金額よりも、サポートメッセージがありがたいんだと気づきました。 読んでいただいて、ありがとうございました。