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しばいぬ、16歳。

介護をすることが、これほど大変だとは思わなかった。

16歳を超える芝犬を飼っている。平均寿命は15歳というから、人間でいうと90歳くらいになる。立派なおばあちゃんだ。客観的にみれば、もう数年の命しかない。

足取りがおぼつかなくなった。足に力が入らない。踏ん張れない。頑張って歩けたところにさえ、次の週には歩けなくなっている。

散歩は数十メートルを往復するだけになった。満足に歩けなくて、途中でへたり込んでしまう。腰が徐々に落ちていく。ふらふらと体が揺れる。抱っこして家まで帰る。その繰り返しだ。

ずっと家の中にいる。歩けないから、うんちやおしっこを外でしない。家の中でする。昔は家の中で排泄することはなかったけれど、近頃はそうも言えない。

ただ息をして、ご飯を食べて水を飲み、ほんのちょっと外に出るだけの毎日。あとはずっと寝ている。

朝起きると、寝床でうんちをしている。うんちをする時には、お尻に力を入れないといけないが、その力さえ入れられない。ただ落ちてくる。お尻の毛に引っかかる。臭いを発する。

臭いの発生箇所を探すが、見つからない。そういう時は、身体の下に敷いている。潰れたうんち、毛にまとわりつ茶色の物体。その場でうんちをして、その場で寝る。遠くへ移動する力もなくなった。

うんちを片付ける。床に密着したうんちをこそげ落として、アルコールを染み込ませた布でふき、排泄マットを敷く。マットの上で排泄してくれと思うけれど、目が見えない犬に、そうも言えない。

犬を抱っこして、お風呂場に連れていく。シャワーをして、犬の身体を洗う。若いころは水を嫌がっていたが、今は抵抗する力さえもない。自身の毛並みが濡れていくのを、彼女は黙って見つめている。

介護はつらい。

この毎日が続くことがつらい。

最初はいい。まだ元気がある。でも「これからも弱くなっていく一方だな」とか、「床のうんちを片付けるの、今日何度目だろう」とか、「さっき洗ったばかりなのに、おしっこの上で寝ている」なんてことを繰り返されると、音を立てて精神が磨耗していく。

──汚いままでいいかな。

そう思うこともある。そうしないのは、同じ場所で生活しているからにすぎない。臭い部屋でご飯を食べようとは思えないから、仕方なく洗っている。多分、家の外で飼っていたら、ここまでの頻度で洗ってはいない。

ドストエフスキーの短編で、乳飲み子を抱える母親の話を読んだことがある。子供が泣いて夜も眠れず、静かに狂っていった母親は、子供の首に手をかける。そしてやっと熟睡する、という物語だ。

子供はまだ、将来がある。一時的につらいかもしれないが、もっと楽しい日々があると期待できる。

でも介護には、将来がない。死んでいく様を身近で見続ける。日々、できないことが増えていく。介護すべきことが増えていく。寄り添えば寄り添うほど、死に近づく。

解放されるのは、その死だ。

ピンピンころりと死ぬのだったら、哀しさが骨身を浸しただろう。そのくらい一緒に生きてきて、思い出がある。もう10年以上も一緒にいた。その感情は、簡単に整理することはできない。

でも介護の日々をへると、その確信はない。まずは、ほっとすると思う。死んだことで、もう介護しなくていいのだと安心する。解放された気持ちになる。

疲れているのかもしれない。

サポート金額よりも、サポートメッセージがありがたいんだと気づきました。 読んでいただいて、ありがとうございました。