擬制としての国家――暗号通貨は、擬制を実態化させた

正統性、という話をしました。その正統性は、国民からくるものだという話もしました。

けれど、こう問われたらどうでしょうか。

「あなたは政府を積極的に支持していますか」

多くのかたは、否だと思います。だって、不満ばかりがあります。あたりまえです。政策の成功は目に見え難く、政策の失敗は目に見えやすいからです。課題の量も質も、増えてきました。政府は、常に存在する国民からの不満に答える必要があります。そうでないと「正統性」というフィクションを維持できません。

正統性とは、フィクションの産物です。

フィクションは、ニセモノという意味ではなく、擬制、ということです。実際に存在するものではないけれど、そうであるものとして扱う。その仕組み自体を、積極的ではないにしろ、暗黙のうちに認めるということです。

通貨というものは、フィクションです。1万円のお札は、ニセモノではありません。受け取る側が「一万円として受け取る」という約束があるから、擬制として日本国の経済圏が成立します。

政治とは、擬制を使うことで人間共同体を運営する営みです。

言い換えます。正統性の基礎を拡大する、ということは、擬制に参加する人間を増やす、ということです。国家は、自らの共同体の決定に、参加する人間を増やしてきました。それは、擬制を維持するために必要だったからです。国家というものは、本来的にフィクションだからです。そのフィクションを維持するために、福祉などを拡充する必要がありました。

代議制民主主義は、擬制です。正統性という実在は、ありません。ないものをあるように見せる、そしてそれを暗黙のうちに認めさせる、そういう擬制をもって初めて、代議制民主主義が成り立ちます。

これは、どんな政治体制でも同じです。実態のない擬制だから、正統性というロジックが必要でした。

擬制を成り立たせるには、正統性が必要です。正統性は、民意からきます。民意とは結局、同質性です。同じものが閾値以上あるから、それは正統とする、という擬制が成り立ちます。トートロジーですね(トートロジーだから物理的暴力が重要なのです)。

頭がこんがらがってきました。すべてが擬制だからです。実態がないからです。実態がないのに、あるようにふるまっている。ぼくらはそれを日常だと思っている。これこそが擬制です。

擬制というのは、歴史の転換点で、激しい抵抗にあいます。というよりむしろ、我々は、擬制が解体され新たな擬制が生まれることを、歴史の転換点として評価してきました。

革命という営みは、擬制の解体と再構築を意味します。

暗号通貨は、この意味の「擬制」を塗り替える可能性をもっています。擬制という、人類の政治史が積み上げてきた発明を、手で触れるようにしました。暗号通貨のプログラムは、人間政治における「委任と責任の連鎖」を明確に定義します。擬制を、自分の手で構築できるようになりました。

擬制は、たしかにそこにあるけれど、目に見えないものでした。でも現在では、明確に触れるものとして姿を現しました。これは、擬制でしょうか。違います。プロトコルと言うべきでしょう。

現在、プロトコルをめぐって、ガバナンスの議論が始まりました。本質的な議論です。つまり、自己統治=公共統治の等式が成り立つ暗号通貨において、自らの手で上位権力を定義するものだからです。

歴史上において、統治権の民主化といえるでしょう。それはプログラマブルな擬制という発明を、ビットコインが提示したところから始まりました。

※この連載は、将来に向けての試論です。書きながら、あー違うかも、という声が聞こえてきます。しかし、うまく言葉になりません。本質的な議論をしているはずですが、頭が足りません。コメントで助けてください。

サポート金額よりも、サポートメッセージがありがたいんだと気づきました。 読んでいただいて、ありがとうございました。