映画『マッドマックス:フュリオサ』レビュー ①フュリオサという英雄に捧げるサーガ ※ネタバレあり

前作『怒りのデスロード』でシャーリーズ・セロンが演じたフュリオサという女性像が衝撃的で、彼女の物語をもっと知りたいと思っていた。ここ十年ほど、種々の創作の中で次々に生まれる女性像に、私は夢中になり続けている。その中でも、フュリオサほど忘れがたいキャラクターはいない。

作品全体に関して言えば、予想以上に前作と作風が異なった。意外なラストも相まって、見終わってすぐは、不完全燃焼感があった。けれど、いやだからこそ、時間をかけてじわじわと考えが発酵する中で、前作とのつながりと違いが見えてきた。
本作は、まさしく英雄・フュリオサについて語る叙事詩・サーガとして創られている。章立ての構成(ジョージ・ミラー監督の過去作『ベイブ』でも取られていた手法。なお『ベイブ』は、絵本を映画化したもの)、映画終盤で突如、語り手が出てくることなど、サーガとしての体裁をなしている。
今作は、新しい女の英雄像をみたいという、私のような観客の望みに真っ向から応えようとするものだと感じた(そうでない観客にとっては、期待外れであろうことはうなずける)。

1.フュリオサの英雄たる理由:マッドな世界でマッドじゃない


『マッドマックス』シリーズの主人公はいうまでもなくマックスだけれど、フュリオサはマックス以上にヒーロー感がある。その理由が、本作では明確に示されていたと思う。

フュリオサは、マッドな世界にあっても、常に正気だ。

前作の冒頭でマックスは、多くの時間をマッドな世界を生き残るために費やし、わずかに訪れる静かな時間には過去の亡霊に苦しめられ、正気と狂気の境にいた。映画冒頭で、マックスは自分が狂っているのか、自分以外の全てが狂っているのかと問いかける。
フュリオサは、マックスと同じく、目の前で大事な人々を惨殺され、フラッシュバッグに苦しめられるけれど、正気を失わなかった。
ディメンタスは、まだ幼いフュリオサを捕らえ、母を惨殺する光景や、バイカー集団による野蛮な殺戮の光景を見ることを強制した。フュリオサは当然、心に大きな傷を受けるが、正気を失わず、記憶から逃れようともせず、静かに怒りを燃やし続ける。その心の強靱さは驚異的だ。今作でフュリオサを演じるアニャ・テイラー=ジョイの、大きく印象的な目が、恐ろしい現実を直視し対峙するキャラクターを体現している。

2.フュリオサが正気でいられた理由

フュリオサが正気を保ち続ける支えにしているのが、自らがかつて属していた共同体の記憶だ。「鉄馬の女たち」は、汚染されていない土地で、仲間同士が信頼と共通の信条(「種を植える」ことで象徴的に示される)で結ばれている。まともな世界が存在すること、自分は確かにそこから来たという事実が、彼女が狂った世界を狂ったものと認識し、正気を保つ力になっている。
暴力を見続けて心が壊れそうになったフュリオサは、自ら左腕に故郷への地図を入れ墨にする。故郷への道程を我が身に刻み、幾度でも反芻することは、正気をとりもどす回路を辿ることなのだろう。
フュリオサの物語は、貴種流離譚の類型に属するものでもある。
もっとも、故郷そのものが失われ帰還は適わず、彼女は新しい故郷・共同体の建設というより困難な事業に取り組まなければならなくなることは、前作で示された通りである。その結末は示されていないが、今作でフュリオサの物語がストーリーテラーに英雄叙事詩として語られているという、メタの語りそのものがヒントになっているように思う。荒廃した世界においても、フュリオサらの新共同体建設は、少なくとも何らかの実りを結んだのだろう。破壊と無秩序を象徴するディメンタスの体に樹が根を張り、実をつけたように。

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