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読めば読むほど腹が減る名著 『散歩のとき何か食べたくなって』 【読書ログ#76】

『散歩のとき何か食べたくなって』(池波正太郎)

私は、毎週のように東銀座の「ナイルレストラン」でムルギーランチという、チキンカレーを食べている。

ムルギーランチは美味い。超美味い。

大好きな店なので、いろいろな方を連れ立って行くのだけど、あるとき同行した方が「あの方たちの指は絶対に美味い、なんなら今すぐ舐めに行きたい」と言い出して、その場に居る人間をドギマギさせたことがある。

ムルギーランチは、テーブルに運ばれてくると、店員さんの手によってモモ肉から骨が外されるのだが、その際の作業が素手で行われるのだ。

そんなエピソードを、池波正太郎の「散歩のとき何か食べたくなって」を読んだときにふと思い出した。

そうそうそう、話は変わるんだけど、次女が、肉の食べ方を教わってきたという。

パパにも知ってほしいというので、居住まいを正し話を聞くと、まずは両手で骨を持ちまして、と始まった。

間違いない、あの肉だ、ギャートルズの肉だ。

ひとしきり説明をして満足した二女が、是非骨のついた肉が食べたいというので、一緒に肉屋へ行き、手羽中を沢山買ってきて焼いて出した。そうしたら、両手に骨を持って大喜びで食べてくれた。超可愛い。

家族全員で肉を齧る団欒のさなか、私は「肉で一番うまいのは骨の周りだ!」と力説する。

鶏肉もラム肉も、豚も牛もなにもかも、骨の周りの肉は美味い。

私の妻は、手羽やもも肉の骨の周りの肉をしっかり食べない。こそがない。それではいけない。一番美味いところを捨てている。

妻曰く軟骨が付いてくるので食べにくいと言うが、それではいけない。歯を使ってしっかり肉をこそぎ、骨のまわりの美味い肉を全部頂いた方が良い。

硬くて噛み切れない軟骨は、そのまま飲み込めば肌にも良い(推測)。皿に残るのは真っ白に乾いた骨だけになるのが理想だ。

だがしかし、我が家では圧倒的に妻の地位が高く、私と妻では子供達への影響力が天と地ほども違うので、子供達も妻に習い骨の周りの肉には無頓着になってしまった。一本一本との付き合いよりも、数をこなすことに夢中になっている。飽食だ飽食。

どんなに力説をしても、面倒だからと聞き入れてもらえない。普段から私の会話のほとんどが戯言なので、オオカミ少年よろしく父の話は右から左だ。

オオカミ少年の話の本懐は、いつか必ず狼がやって来るところにあるというのに。なんて愚かだ。美味いのに。

骨の周りの肉は、筋で固定され形も崩れないことからジューシーさと程よい質感が保たれる上に、骨の髄液が染み出し旨味が増す、更にカルシウムの作用で、冷めても肉が固くなりにくい。

骨の周りの肉が美味いのは、エビデンスもあり確かな事なのだ。だが、こういった科学的でアカデミックな話も、やっぱり聞いてもらえない。

そして、骨の周りの肉で思い出すのが、私が毎週のように食べているナイルレストランのムルギーランチなのだ。

ムルギーランチとは、先ほども説明した通り、地鶏のもも肉が1本ドーンと乗ってやってくる超美味いカレーである。

このカレーは、ライスとマッシュポテトと野菜、ルー、そしてもも肉を、一心不乱に混ぜ、混ぜて混ぜて、混ぜてから混ぜて、混ぜ切ってから食べるのが流儀になっている。なので、皿が届いたら、たちまち骨が外され、下げられる。骨が残っていると混ぜにくいからね。

スタッフにより器用に手早く骨が外されるのだが、問題なのは、毎回少し肉がついたままで下げられてしまうのだ。もったいない。あのちょっとこびりついた肉、美味いに違いない。下げられていく骨を惜しそうに眺めるとき、女にふられたベニチオかニコラスケイジみたいな顔をしていると思う。

あの骨に、なんとかしてしゃぶりつきたいと思うのだけど、言い出せるはずもない。取り外された骨がどうやって処理されるのか解らないが、捨てられているのだとしたら惜しい。

少し温めて、イタメシ屋で出てくるグリッシーニのようにグラスに骨を山盛り刺して出す裏メニューは無いのか。無いよな。

あ、そうだ、池波正太郎だった。すみません。

京都三条木屋町の「松鮨」の紹介では、江戸前鮨でもなく、関西寿司もない独自な鮨をさして「それを握るあるじの爪の中までもなめたいほどの美しい鮨だ。」ときて、そのあるじをみて「神経のはりつめた横顔は美しい」とまでかいている。完全に恋文。

ムルギーランチは大好きだが、そこまで惚れたことはない。冒頭の「あの方たちの指は絶対に美味い、なんなら今すぐ舐めに行きたい」エピソードは、恋文というよりも猥談に近い。自分の思い入れの浅さが恥ずかしい。これからは、スタッフの指をみるだけでヨダレが出るくらいになりたい。

池波正太郎は、小説家として身を立てる前の丁稚な時代から、東京のあちこちを歩き、食べてきた。そして、愛する店には通いつめた。時代の風に逆らって、風情を残す店への愛情を隠さない。

この本は、そんな愛してきたお店へのラブレターのような随筆がならぶ。

幸いな事に、池波の愛した店や町並みはまだ少し残されている。たまには街歩きに出かけてみたいなと思う。

「それって有意義だねぇ」と言われるような事につかいます。