今此処でスーザン・ソンタグに再会する(2)

[こちらは「東京プライド」のメールマガジンに2011年7月から12月まで月1回連載されました。以下は2011年8月配信分。]

スーザン・ソンタグの『隠喩としての病』 (以下『病』) に限らず、第二次大戦後から1990年代までの冷戦時代に書かれたもののいくつかは、2011年3月11日以降の日本にいる私たちにとって予言のように聞こえる。たとえばこのようなくだり。

「米ソをはじめとする核保有国の核実験 (大気圏内と地下と) は、すでに厖大[ぼうだい]な量の放射能を地上にまきちらした (略) 。寿命の長い“死の灰”による汚染は長い年月の間持続することになろう。その汚染はひとつの規定事実となり、時には『それに比べたらわずか』」というような理由で、原子力施設のつけ加える新たな汚染を許す理由になったりする。」 (高木仁三郎『核時代を生きる:生活思想としての反核』、講談社新書 、1983年、21ページ)

事実、2011年3月11日以降、福島第一原発事故について上記のような言い訳は使われている。ソンタグが1977年に『病』を発表したのよりはるか以前に私たちは核時代に突入しており、いまだその時代を終えていない。

2011年8月6日に東京で行われた東京電力などに抗議する反原発デモで、「東京癌力」というのぼりを持っている一団がいた。福島第一原発の事故は、ガンの発症率を高める放射能汚染を広範囲に引き起こしたから、発電所を設置・運営する東電は、突き詰めれば文字通り「ガン」の元凶である、という抗議である。

思えばこれまでも多種多様な事件や問題が、批判者にとっての「悪」が、ガンにたとえられてきた。ソンタグ自身、「アメリカの対ベトナム戦争に絶望したあまり、『白人種は人類史上の癌である』と書いたことがある。」 (『病』、みすず書房、2006年新装版、126ページ)  

なぜそう「悪」と糾弾したいものをガンにたとえるのか。ソンタグはいう。

「 (前略) どうしたら道徳的に厳格であり得るのだろうか。厳しい態度を向けるべきものがかくも多い時代に、どうしたら? 『悪』に気づきながら、悪について理知的に語ることを可能にする宗教の言葉も哲学の言葉もない時代に、どうしたら? 『根源的な』『絶対の』悪を理解しようとして、われわれは適切な隠喩を探し求める。」 (『病』、126-7ページ)

けれども、「それ[ガンの隠喩]は複雑なものを単純化する傾向を必ず助長し、狂信的な態度はともかく、自分は絶対に正しいとする思い込みを誘いだしてしまうものである。」 (『病』、127ページ)

つまり「○○は癌である」といっても○○の批判としてはあまり有効な批判にならないかもしれない。批判そのものが無効でなくても。○○についてより有効な批判を望むのなら、複雑なものを安易に単純化しないで、隠喩だけに頼らず、より適切な表現を探すしかないのだ。逆に言えば、複雑なものが単純化されて提示された場合には、警戒し、批判的に捉えることが賢明といえる。そうしないと複雑な問題を一部しか理解できず、結果的に偽りを信じることになり不利益を被るかもしれない。

『病』でソンタグは、ガンではないものをガンとたとえる際の意味が、ガンそのものにまつわる意味になっていることを解きほぐそうとしているのだが、『エイズとその隠喩』では次のようにも述べている。

「この病[エイズ]の場合、多くの罪と恥の意識を掻き立てる病の場合、それをこうした意味や隠喩から切り離す努力は、とくに解放感をもち、慰めすら与えてくれるように思える。しかし隠喩は回避さえすれば距離のおけるものではない。暴露し、批判し、追及し、使い果たさねばならないのだ。」 (『エイズとその隠喩』、270ページ)

最後の文は原文では受動態なので直訳すると、「あばかれ、批判され、こきおろされ、使い切られなければならない」となる。隠喩を「暴露し、批判し、追及し、使い果た」すとはどういうことだろうか。

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ジャニス・チェリー
日本生まれ、超個人主義な文化育ち、2003年より神奈川県川崎市在住。呼吸するようにフェミニズムとレズビアン・アートについて思考したい。時々フェミニズムやクイア・スタディーズの勉強会などやっています。http://selfishprotein.net/cherryj/indexj.shtml

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