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『長い一日』を読む長い一月 〜19日目〜

滝口悠生さんの連載小説『長い一日』(講談社刊)を一日一章ずつ読み、考えたことや想起されたこと、心が動いたことを書いていく試みです。

三連休の中日です。「好きな言葉は?」と聞かれたら、「三連休」と答えたいくらいなのですが、なかでも中日がいちばん好きなような気がします。次の日が休みで気が楽、というのは二連休の土曜と同じですが、前日休んだのに、次の日もまだ仕事に行かなくていい!という開放感は、心身をぐにゃぐにゃと緩ませ、昼間からビールなど飲んでしまったりします。
時間にも気持ちにも余裕があったからか、今回、文章を音読したものを録音し、耳で読んでみるということをやってみました。オーディオブックの真似事です。そんな第19回は「スーパーの夫(一)」。「台所の夫」に続く、「夫シリーズ」第二弾。

あらすじ
夫はスペアリブのことを頑なにスペアリブと呼ばないが、それには理由がある。それを説明するために、夫婦の家の近所にあるスーパー「オオゼキ」のことが語られる。
夫も妻もこのスーパーを気に入っているが、オオゼキがない街に引っ越した後「大切なものは失ってみてはじめて気づく」という言葉を実感している、という夫の傾倒ぶりは相当のものである。
妻と一緒に住み始めるようになってから、料理を始めた夫にとって料理経験のすべてはオオゼキとともにあった。店外に並ぶ移動販売の店舗、入り口のパンの香り、ほかのスーパーでは見かけない珍しい品揃え、そしてレジ打ちの販売員さんにほとばしる主体性。そういった事柄が、スーパーオオゼキのことを考える夫に想起される。
語り手である夫自身も忘れかけていたが、スペアリブの話で、夫は豚バラ肉をスペアリブとおんなじように煮ることがあって、妻はそれも「スペアリブ」と呼ぶのだが、夫は骨もついていないのにそれを「スペアリブ」と呼ぶことが、「騙くらかすようなこと」だと思っていて、したくない。そして、骨が付いていようが、付いていまいが、「豚肉」と呼ぶようになった。

スペアリブ
2日前の第17回で、「こんなにもスーパーの割引キャンペーンが詳細に描かれる小説を読んだことがない」といったことを書きました。今回は、スーパーそのものが克明に、思い入れとともに描かれています。スーパーオオゼキには、わたしは多分2、3回しか行ったことがなくて、それも10年以上前なのでほとんど印象もないのですが、その魅力(もはや愛)を約10ページにもわたって描かれると、なんだか夫と一緒にスーパーで買い物に行った気になり、そればかりか自分もいつもそこで買い物をしているように錯覚し、勝手に愛着を感じてしまったりしています。余談ですが、写真家の植本一子さんがTwitterで「近年稀に見るオオゼキ小説の誕生!」と評しています。
スーパーをどちらから入って、どちらに進んで行くか(ちなみにわたしは右から左のオーソドックス派(?))とか、妻への背徳感から鉄火巻きやネギトロ巻きを買わないこととか、骨つき肉の値段には骨の重さが含まれることとか、そういった些末で、説明するほどのことでもないと思っていることが、わたしたちの生活の大部分を占めています。

なにかについて話そうとすると、それ以外のことがたくさんついてきて、話がどんどん長くなってしまう。(p.201 ) 

説明によって得られる情報量と、それに費やされる言葉の量のアンバランスさ。しかし、もしかしたら何かを語るときに「それ以外のこと」と結びつけて語る、その語り方でしか伝わられないものがあるかもしれず、この回でいえばオオゼキへの愛を経由することは、夫がスペアリブと呼ばないことが恣意的なものではなくて、重みのある言葉の使い分けであるということを記述するために、必要な過程であったといえるのではないでしょうか。と、ここまで長々と語ってきたことにも、きっと意味があると自分で言いたいところです。
最後に冒頭で書いた試み、耳で読むということについてふれたいと思います。まず、あちこち噛んでしまっている部分が気になり、内容があまり入ってこないという問題がありました。他方で、ただ読むだけよりも頭に残っている気もして、情景が目に浮かぶような感じもあります。あくまで印象ですが。ライターの九龍ジョーさんが言われていた「自分の演算装置をとおす」(詳しくはこちらの記事を読んでください)ということを意識して、いろんな事柄に接するようにしているのですが、演算装置のとおしかたを工夫するというのも大切かなと考えています。人は視覚を通して情報の8〜9割を得るそうですが、聴覚を通して読むことで生まれるものがあるのではないか。これからもこの取り組みは続けていこうと思います。きっと読むことも上手くなるはず。

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