小噺

Twitterだと連投になって御迷惑をかける&自分のツイート数がやたらと増えてしまう。
そんなときもここを使おうかしら。
名古屋からの帰り道。


いわゆる『音楽家』と言われるものになろうと思ったことはありませんでしたし、今も「自分とは…」と悩んでいるところではあるのですが、ひとまず身の回りには常に音楽があって、それをかなり自分に近いものとして感じて生きてはきました。

5歳のときにピアノを始めたときは、特段自分が音楽をしているというような実感はなかったよう思います。
しかし10歳になるより以前のどこかで、音楽に強く惹きつけられた記憶があります。
それはお葬式のときでした。
母の親戚が亡くなったのだと思います。
それに際して、昔ながらの家が立ち並ぶ母の実家に赴きました。
岐阜の山奥で、白馬とは異なって竹林が茂り、かなり湿り気のある森の中でした。
その空気の中にお香の香りが漂い、聞き慣れない関西なまりの言葉が飛び交っていました。
そしてその中に、リコーダーかオカリナか、ともかくその類の音色でシンプルな旋律が繰り返し流れていました。
この旋律がやたらと印象に残っていて、ともかくこの時の僕は人の死や悲しみなどそっちのけで、「お葬式の曲を作る作曲家になりたい」と思ったのでした。

もちろん今は作曲など全然できませんし(テキトーな手癖でピアノを延々と鳴らすことはできますが)、そのための勉強も結局ほとんどしませんでした。
ですが曲を選ぶときや魅力的だと感じるとき、どこか「お葬式で使えそう」という基準を置いている自分がいるようにも思います。

無論、死は(おそらく)苦しく恐ろしいもので、近親者が被る悲しみは計り知れないものでしょう。
音楽はこれらに寄り添うことがしばしばあります。
坂本龍一がこの間「音楽の力」について言及していましたが、音楽はこうした死の苦しみや悲しみを和らげる麻酔薬のような力を持っているのでしょう。
しかし麻酔は麻薬でもあるので、用法容量には注意、というやつです。
死や孤独や心の空虚さは人の生存とは真逆の位置にあって、音の美しさはそれらをも美化します。

ああでも、父の葬儀は音楽でどんちゃん騒ぎで彩ってやるんだって約束しています。

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