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【百合漫画レビュー】あの頃の青い星(第3回)

どうも、イレイナ・セレステリアです。
noteを開くのいつぶりなんだろうか。忙しさのため書きたいことを書くパワーがどうしてもなかった(´;ω;`)
しかし!我らが「あの頃の青い星 5巻」を拝読して!!あまりの最高さにわたしの頭の中の小人が重い腰をあげました。何が最高か、徒然なるままに。

1.過去記事おさらい

わたしの過去記事で「海」は何を象徴するのか簡単に触れたと思います。海は母体、母性、外界への船出、無意識の欲動などなど、この作品のテーマとなるもののシンボルです。
構本海さんは正にそれを体現したような皆のお母さん的側面があり、母の愛complexお姉さんの瀬川晶さんはもうメロメロなわけですよ。と同時に、社会的行動のきっかけになったのも溝本さん。ずっとひとり夢の中にこもってきた瀬川さんの、外界への初めての関心、船出。

2.今回の見どころさん!?

おさらいを踏まえ、5巻は構本さん=お母さんというのが直接描かれましたね。そんなお母さんとの関係で徐々に社会性を身につけていく瀬川さん。1番分かりやすい場面は文化祭ですね。海洋研に所属してほぼ1人で生き物を世話してきた瀬川さんは。昨年の文化祭ではただ知識を羅列するだけの展示を、役割的にこなすだけでした。
一方で溝本ブーストを受け急成長した瀬川さん。「構本さんに楽しんでもらえる展示にしたい」という気持ちから、見やすいとは、親しみやすいとは、など他者視点を獲得しました。それにより展示そのものはいい作品になったのですが...瀬川さんの体験としてはちょっとキツいものになったのが、今年の文化祭でした。
そんな時泣きつくのは、やっぱり構本さん。文化祭が終わったころ、だれもいない教室の簡易プラネタリウムの中で2人は母子になります。

構本さん「ひざ枕してあげる」
瀬川さん「...」ころん

わたし「いーっひっひっひ!!」

百合に挟まるわたし氏ね。このシーン最強すぎるんよ。
外界で戦って傷ついて、お母さんのおひざに帰ってるくる。これってまるで幼児や児童の行動ですよね。母親がいるから好奇心、挑戦心のまま戦えるし、失敗しても大丈夫だと思える。帰ってくる場所があるんですから。心理学だと基本的信頼感とか安全基地という概念っぽいですね。しかし瀬川さんには1番足りてないところ、complexです。自分でいいんだ、生きていていいんだ。こんな当たり前がわからない。だから文化祭で戦って、傷ついて、プラネタリウムの中(安全な基地)でお母さんのおひざに帰ってきて...。幼児期の未解決課題を今まさに穴埋めしているわけです。人間ってcomplexが行為(好意)に直結することがありますよね。

作品の魅力としてはこのシーン最高潮なんでふが(鼻息荒)、わたしとしては一抹のdiscrepancyを感じるわけです。それは...

お母さんへの好きは愛になれるのか?

これはある意味もはや作品の魅力になり得るわけですが。わたしの中では瀬川さんの気持ちというのは、まだ完全な、恋愛ではないことになっています。
構本さんの好きは簡単に言えばえっちな気持ちになる好きで、作品の最初期から夢で瀬川さんのエチエチな姿を見るなど描写がありました。一方で瀬川さんはあまりそこを意識してないんですよね。同性恋愛に対する葛藤描写もすくない。だから5巻でも、構本さんが女同士の不安にfocusする中、瀬川さんは「女同士とか、どうでもいいよ」と少し噛み合わないシーンがあります。問題は自分が自分であることへの絶望なのだと。幼少期から何も変われない欠陥品の自分に付き合っていては、構本さんもダメになる。この思いって人を構成する要素としてはより低次(重要という意味)のもので、構本さんが抱くもう少し高次の悩みとは、小さいようで大きい齟齬があります。

生きていていいの?
女同士でいいの?

だいぶん違いますね。お互いへの気持ちが強まっているけど、その中核は実は違うものなのでは?とわたしはおもうわけです。

3.おわりに

という穿った見方もありますが。たぶんラブラブになっていくだろうと、頭空っぽにして思えるくらい最高なシーンもあります。これ以上は作品を読まれた方なら分かると思いこちらでは言及しませんが。

目の前にいる女性が綺麗で、「ちゃぷん」と海で魚が跳ねる音に気づかなかった瀬川さんの想いとは、きっとそういうものなのでしょう。

(・ω・)ノシ

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