引き受けなくてもいいということ

私は端的にいうと ”敏感”であるらしい。

そして好奇心や(よく言えば)探求心、順位付けが苦手なことが裏目に出て、心に引っかかったものすべてを追いかけようとする。

たとえば、相手がふとこぼしている言葉や表情から、これまでの境遇や言動を順に照らし合わせていって、何が見えるかを考える。共感したいと思う。苦しみが感じられたならば、できれば少しでも救いになるような言葉や何かを工夫して考える、など(バイアスは大きいけれど)。私が参加していない、他人同士の会話が聞こえている中でもそれは無意識に起こる。

そんなことを無意識に一つ一つやってしまうので、私自身が今この瞬間本当にやらなければいけないことが、完全にお留守になる。

そこははずすなよ、という肝心な部分が抜け飛ぶ。だいぶマシになったかもしれないが、仕事的には、いまだに明らかな問題となっている。


そんなことに最近気づいて、悩んでいた。相手の闇を垣間見るのは悲しい。結局は、相手の悲しみに似ている自分の記憶の一部を、重ねているのかもしれない。自分の記憶とリンクした時に、引きずられる。相手から何かしらのNoや否定を突き付けられたときも、相手の不快感や思いに先に共感してしまって、何も言えなくて苦しくなることが多い。自分の中で生まれている感情を確認する前に、相手の感情に圧倒される。


そんなサイクルに小さな変化が起き始めている。よく言う、相手の気持ちを引き受けなくても大丈夫、ということを考え始めた。

私が引き受けなければ、誰かが致命的に傷つくとか、何かが壊れる、その結果自分も脅かされる、というようなことはもう起きないのだ。私が引き受けたり押し殺すことで何かが解決する、その時代は去った。しかしその経験が体に浸透して、今も体の中をめぐっていることもまた事実だ。


引っ越しという大きなライフイベントは移植と同じようなものだ。根っこがブチブチと切れるような傷つきのなか引き抜かれ、まったく別の環境へ降ろされる。目に見える地上の環境だけでなく、目に見えない地下の土壌まで何もかも異なる。喪失感も大きい。このような状況では、心からの安心感と暖かい世話をなくして、再びうまく根付くことはできない。

じつは引っ越しの前に、すでに大きな喪失が起こっていたことも知った。10になる前に、2重の喪失を経験したということだ。それが私の心や認識をさらに複雑にしている。今更とは思わず、むしろ知れてよかった。幸せだなと思う。

昨年の今頃から、様々な人を頼りに沈潜して考えてきた。自分の心の網に多くのものが引っかかる過程、それらをそのまますべて引き受けてしまいがちな傾向にも、じっくり見ていくとその理由がしっかりある。他人の問題は私が引き受けなくても他人が何とかするもの。私が入る余地はない。むしろ踏み入ってはいけない場合のほうが多いのだ。その人のためになりたいならば、ただ気持ちを知っている、というだけでもきっと大きなことだ。

他人の荷物は置いといていいんだ、と理解したとき、はじめて私自身の荷物が視界に入ってきたのに気づく。自分の荷物を開けよう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?