抑圧されてきた子の反撃を舐めるな

私が生まれるはるか前、母は赤坂で喫茶店を兄と営み、当時大学生だった9歳年下の父と出会い恋におち、卒業を待って結婚したそうです。当然、父の母と13歳しか違わない新婦は親族に大反対を受ける事に。
それから時は経ち、父は40代で脱サラしバーのオーナーになりました。夫婦仲が良かった頃は、母もその店の裏方を手伝っていました。
私が中学二年になる時、店の経営が苦しくなったのか父が帰宅しなくなり生活費を渡さなくなりました。当時の父はおしゃれで飲んだくれでモテていました。浮気もしていたようです。母は、帰宅して酔った父のDV を受けていながら、どこにも相談していませんでした。夫婦間に何が起こっているのか容易に想像できましたが「子どもが口出しするな。黙ってろ」と一言だけで母に連れられ彼女の実家に居候する事になりました。
父と別居してから、学校が長い休みになる都度、母の口利きで私は当たり前のようにアルバイトを始めさせられました。バイト先は、民宿のお運びから夜はスナックになる店の昼に開ける喫茶店、ボーリング場のフロント、ラーメン店。高校になると母に指示される前に自分でバイト先を決めるようになりました。どうせ稼がなければならないのなら自分がやりたいバイトをした方がマシだからです。ハンバーガーショップ、芸者見習い、ホテルの喫茶室... 、高校卒業までの間にも結構な数の職種を経験しました。
自分の小遣いだけでなく、2つ下の弟が入学する私立高校の学費のしわ寄せで、自身の学校生活でかかる経費や昼食代、衣類や学用品の買い物は、全てバイト代で賄わざるを得なくなりました。最低限のお金しか貰えなかったし、学校や部活の集金の話になると何とも面倒くさそうな顔をされるからです。今なら立派な経済的虐待にあたります。
母はシングルマザーとなったものの、社会保障に対する情報に疎く、周りへの見栄もあり私達子ども達に、夫婦関係が破綻し経済状態もひっ迫しているにも関わらず、その事実を一切学校や周囲の大人や友人に話す事を禁じました。
転校先の中学校へ、私は初日から保護者不在で向かい、中学の運動会、卒業式、高校入学、在校中の家庭訪問、卒業式と母親は仕事を理由に全く立ち会いませんでした。
そんな中高校二年生の時の担任は、仕事を理由に家庭訪問を断った母に対し、わざわざ職場にまで自転車で出向き保護者面接をしてくれました。屋内用の履き物が買って貰えず、体育館シューズを履いていた私に私費で履き物を買ってくれました。母親は、担任に対しお礼の電話ひとつせず、私にはともかく担任に対してすら申し訳なさを感じているようには見えませんでした。

母は時には、その面倒くさい子ども二人の世話を祖母と伯父に丸投げし、都会の住み込み仕事に就く事もありました。私は何度(いっそ自分で役所に行って『親のいない子の施設に入れてほしい』と相談に行こうか)と思ったか知れません。しかし気丈で口も手も出る母親にそれが知れたら、体罰だけで済まず高校自体を退学させられるだろうと思うと実行できませんでした。

進路選択の時期となり、文系が得意だった私は文系大学への進学を望みましたが、当然母親は私の希望には反対。「飯のタネ」に確実に早くなる事を勧めてきました。国家資格の職業に就くための学校を提示したのです。その進学のための費用であれば出してやろう、というほぼ命令。実際は、その入学時の費用すら全額用意して貰えず「自分の進路なんだからお前もどうにかしろ」と逆ギレされ、制服のまま銀行に教育ローンの説明を聞きに行ったり、離婚した父親に泣きながら[合格したのに入学金が払えない]と借金を申し出る電話をしました。
本来なら母親が養育費を請求すべき事を、何故自分が申し訳無さそうに金を請求しなければならないのか納得いきませんでした。自分は先々の弟の進学資金調達の為の「金を運んでくる子」として存在を認められているんだ、と感じました。
その時の父は長年ほったらかしの罪滅ぼしと思ったのでしょう。言葉少なに「返さなくていい。一週間以内にその額送るから心配するな」とだけ言って送金してくれました。彼に援助を求めたのは後にも先にもこの時だけです。彼が無くなる数年前、病床に臥し生活費に困ったと電話が来た際に、その時借りた金額に少し色をつけて返済しました。

子を引き取った親は、プライドや見栄を捨てて 必要な社会の支援、施策を最大限利用し子どもの未来を広げる責任があると思います。それが出来ないのならせめて養育に適した施設に入所させてあげるべきです。


私は、サンダルを買ってくれた当時の担任の先生に、社会に出てから毎年年賀状を送っていましたが、一昨年の年賀状に、「老人ホームに入居し老いぼれ返信ままならず、賀状は今回で最後に。ご多幸を祈っています。」と書かれていました。手書きの震える文字に何とも先生らしい温かさを感じました。

大人になった私は、母親とは表面上は大きな反発や拒絶をしないようにしながらも、周囲にも気づかれないよう、着々と少しずつ物理的にも精神的にも距離を広げていきました。
自分の事を本心から心配してくれた担任が老人ホームに入居し穏やかな老後を送る一方で、母は認知症が進行し、廃業した自分の会社で未だ従業員にあれこれ指図して現役でいる見当識障害の世界で生きています。介護サービスを受け、ひとりぼっちで都会のマンションで暮らしています。因果応報でしょう。

「何なら会社をあんたに譲ってやってもいい」「あたしはもう仕事に疲れたから子としてそろそろお前が継ぐのが世間一般の親孝行だろう」と、80歳を過ぎても私をコントロールしようと、ひどい時には一日何十回と留守番電話に入るようになり携帯の留守電機能を止めました。実の娘の最低限の責任として 数年前に彼女の会社の破産手続きや必要な行政手続きを終えてからは、電話も訪問も一切していません。恐らくこの先、大きな手術や危篤状態になっても会いにいかないと思います。

親に搾取子認定された子どもの傷は、大人になって瘡蓋化していても親と関われば再び瘡蓋が剥がれてしまうからです。

私のような子がこれから一人でも出ないよう、今、私は離婚しようとする親に社会保障制度を説明しつつ、望まずも巻き込まれる子の権利や養育の義務も伝えています。


毒親からは逃げるが一番です。戦ったり詰ったり謝らせても過去は変わりません。連絡や関わりがどうしても途絶えられないのなら せめて被害が最小限になるよう、子である当事者がしっかりと自立して、親と他人になりましょう。

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