地方創生とコンパクトシティと言う二つの施策の社会理論的分析〜ニコラス・ローズの言説を中心として

 友人である牧瀬関東学院大准教授の記事↑を拝読し、はっとしました。実は今、書いている博論のコア部分を重なるところが多いのです。彼によると、「「コンパクトシティ」の前提には、一定の地域に人口が集中したほうが、行政サービスを効率的に提供できるという「集積の利益」の概念がある。この観点で考えると、コンパクトシティの究極の形は「東京都一極集中」であり、地方創生との矛盾が生じることになる」とのことでした。

この矛盾はなぜ生じたのかという答えを、デザイン的視座から考えています。地域振興という施策群において、地方創生とコンパクトシティの施策の何がぶつかっているのかというと、それは、政策価値の衝突が生じているのであり、そして、施策と事業は合従連衡を引き起こしながら、事業の展開を矛盾を引き起こしながら、進んでいるという事なのではと考えています。

最近、参考しているニコラス・ローズが唱える「コミュニティの疑似政治言説化」というアイデアを中心として考えてみます。テキストは、『Power of Freedom』Cambridge University Press,1999.です。以下の引用は全てここからです。(※なぜだがnoteだとイタリックで表記できないので日本式と欧米式のちゃんぽんで参考文献を示します)。
アマゾンでは、https://www.amazon.co.jp/Powers-Freedom-Reframing-Political-Thought/dp/0521659051/ref=sr_1_3?ie=UTF8&qid=1548720958&sr=8-3&keywords=power+of+freedom
です。

コンパクトシティ施策のコアは、牧瀬先生も示しているように、集積による社会的メリットの増大にあります。何らかの施策により一定の空間への集積を図り、その上で創発等の相互関係を生じさせ、社会的なベネフィットを発言させるというところでしょう。

そして、地方創生施策のコアは、自明であるなんらかの空間性(一般に現在の平成の合併後に登場した)に疑似コミュニティを発生させ、コミュニティ内での社会関係を活発化させることで社会的な・経済的なベネフィットを発生させるということになります。

一定の空間への集積を図るということと疑似的コミュニティを発生させることは短期的には衝突が想定されますが、中期的には空間性に両立は可能であろうと思われます。この両立には、擬似的コミュニティの核となる道徳性・倫理性が政治的なアイテムとして使われることが想定できます。

そこで、ローズを引用します。彼は、現在のイギリスにおけるコミュニティに関する政策について、社会全体をコントロールする強制力とマネジメントのあり方を促進する擬似的な政治的な言説になっていると指摘しています。「コミュニティの制度の中に、一つのセクターが誕生している。そのベクトルと力は、個人的な倫理や集合的的な忠誠の実践、あるいは、活発な自己管理やアイデンティティ構築の実践を促進し、活用する新規のプログラムや技術を通して、動員、討論、配置する。私は、こうした事態をコミュニティを通じた政府と命名する(p.197)」。

そして、ローズの指摘のポイントは、以下の二つにあります。
(1)コミュニティという言葉の響きには道徳的魅力(ボランティア・慈善事業など)があり、市民的義務や市民がもつ社会的な道徳的な関与が含まれる。
(2)この道徳的魅力は、国家から責任を排除することで社会的シティズンシップを弱める。対して、コミュニティと言う言葉が統治を促進するアイコンとして、幅広い政策分野で活用が進む。「コミュニティの再生、コミュニティの専門家、コミュニティの安全、コミュニティの開発」(p.189)などが代表的である。

つまり、コミュニティという言葉が擬似的な政治のガバメントのツールとしての倫理的・道徳的な側面から支配→被支配の関係を促進する可能性といえます。現在の各種コミュニケーションの深化は、これまでの個人⇄様々な共同体⇄社会⇄国家⇄(個人)という相互関係にどのような影響を及ぼすかはこれからの議論となると言うことです。

そして、どうして、コミュニティと言う言葉の疑似的政治的言説化を引き越したプロセスが発生したのか分析が必要になります。(次回につづく)



ありがとうございます!