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家族史①

 私の祖父は元は広島の大工の家系で、理由は定かではないが、とにかく茨城に来た。祖母の家系は、有名な武家の男子が、芸者と駆け落ちして作られた家で、茨城は鉾田、交通の要衝で芸妓のいる宿屋をやっていた。鉾田という地は、北浦湖の北端が町の中心に突き刺さるような立地で、東北の米を馬に乗せて運んできたのを、船に載せ替える一大経由地だった。船は北浦湖畔を南北に目一杯下って、利根川を遡って江戸川に入り、江戸へと米を運んだ。そういう人の集まる土地柄だから、旅人や人夫を接待する華やかな町ができた。江戸時代から昭和初期にかけて、鉾田はちょっとした歓楽街だったそうだ。寂れた農業生産地の今では考えられないことだが……。
 祖母の家はGHQの接待もしたとかいう話だが、真偽の程は定かではない。まあ、そういう家柄というのは、当時差別されたらしく、成績優秀で表彰されるはずだった祖母の兄は、みんなの前で式辞を読むことを憚り、祖母が代わりに読んだ。祖父は家柄のことを全く気にしない人で、祖母と難なく一緒になったらしい。祖父は陸軍士官学校で暗号解読をやった後、卒業前年に終戦。茨城へ帰ってきて、学校の先生をやったらしい。しかし曲がったことが嫌いかつ、自分の意思を頑として曲げない祖父のこと、校長と対立して早々と辞めてしまったんだとか。そうそう、陸軍士官学校時代に面白いエピソードがある。ハンガーストライキをしたんだそうだ。理由は、メシがまずかったとのこと。曽祖母が呼び出されるほどの大事になったらしいが、結局空腹には耐えきれず、最終的に出されたメシを食ったとのこと。軍隊というのは美味い白米が食えるから田舎の人間でも居着くものらしいのに、それをまずいとは大した美食家だ、と思う向きもあるかもしれないが、祖父と一緒にチョコモナカアイスを美味い美味いと言って食べていた私ならわかる。単に祖父は偏食だったのだ。しかも母や祖母の手料理がちょっとでも気に食わないと、まずいと言ってすぐに自室に引っ込んでオカキを食べているような、かなり一筋縄ではいかない偏食だった。ちなみにビーフステーキなら確実に満足させられたから、私もビーフステーキをよく食べた。
 まあ祖父はそういう性格であるから、社会ではなかなか上手くいかなかったのだろう。それでも、初志貫徹の志は尊敬されて然るべきほどに持っていたのだ。祖母と幼い母が親戚中を頭下げ下げ回って作ったお金で土建屋の事業を成功させ、鉾田の顔役のような地位についた。バブルでもずいぶん儲かったらしい。おかげで、母も私も、金に関してだけは全く心配せずに育つことができた。

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