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絵はなんでもいい?、ということ

以前に作った楽曲をSoundcloudにアップして、カバーアートというのがあるのか、はて、どうしよう?と思いました。
安直にAIで「海辺の夏の夕焼け」画像を生成。
瞬時にバリエーション違いの4枚が出てきました。
一番色合いがそれっぽいと思ったものをダウンロードしてそのまま貼ってみました。

この間、わずか1分。

やってみてから、なるほどこいつはすごいよくできた いらすと屋さんだと思いました。またはドラえもんのひみつ道具級。

まったく思い入れのない絵をとりあえず当て込む目的では、これほど手早いものはないです。
これが単なるユーザとして使ってみた素直な感想。

しかもこれを使うのに、ユーザーとしての人は見事にまったく何も思考していません。
少なくとも私は何も考えませんでした。

無思考状態。
ある意味、まさにブルース・リーの、「考えるな、感じろ」の境地。
といえば、カッコよく聞こえるが、いやもうボヤーっと進んでいただけです。

仕事疲れたー、ずっと前の曲があったのをアップしとくかー、夕焼けー、海ー、ぼへえ〜、できたー、ペタ

やった後に、
え!なにこれ、ほぼ何もやってないのにそれなりの体裁が整ったんですけど。
怖っ!
と我に返って思ったくらいです。

表現を生業にする人達の危機


自分がユーザーとしてボヤッとレベルで使ってみて、初めてイラストレーターとかどうなるの?と思い至りました。
なるほど、これはヤバイわ。
なんでヨーロッパやアメリカでAIに規制をかけようという動きがあるのか。
クリエイティブに関する仕事がなくなるかもしれないんですもの。
やはり、何でも使ってみないとわからんもんです。

思い入れのある/なし


 今回、自分は音楽が中心で思い入れがあるので、カバーアートなんてまったく考えていなくて、なんでもいい人でした。
ということは、他の人では逆もありうるということです。
絵や映像にメチャメチャ思い入れがあって、一方でバックの音楽はなんだろ、それっぽいものが鳴っていればなんでもいい、という人。
そんな人にとってはAIにテキストを送って音楽が作られれば、ブルース・リー状態で添え物として使ってしまうのでしょう。

とりあえず体裁がなしていればそれでいい、
真の美を追求しているわけではない、
目の前の案件と問題を解決するために当て込む、
というワークは、実はたくさん存在していて、分野によっては下手するとそちらの方が圧倒的に多い、マスな場合があるわけです。
そして、そのマスでもって今の世界の経済がまわっているのも事実です。

AIで作られるものはそういうマスの「クリエイティブワーク」を侵食していくのは否めないかもしれないな、と思います。
クリエイティブの分野でもAIに侵食されるものと侵食されないものがパキッと分かれる、
格差がついて分かれる、
体裁を整える系のワークに従事していた層は淘汰される可能性が高い、
というある意味残酷な世界が来るのかもしれません。
残酷というのが語弊があるとしても、少なくとも混乱することは免れないでしょう。

そして、その残酷な世界の到来をいち早く予見している層が、AIに規制をかけて抑えようとしたり、AIを使う側になろうと喧伝している状態が入り乱れている、そういう嵐の前のプチ狂騒曲状態が今なんじゃないか、
と思います。

クリエイティブの価値

だけど、それがアート、クリエイティブワークとして本当に良いモノ、私達人間にとって価値のある作品と感じられるかどうかはまた別の話ではないか、とも思います。

音楽だったらそれを演奏する人の顔がその向こうに見えるもの
絵だったら描いている人の顔がその向こうに感じられるもの
漫画だったら展開するストーリーの向こうにいる作者の存在

私達はそれを感じることがあるから、アートやクリエイティブワークを愛でることができるのではないか、
逆にそれがなかったら、透けて見える人間の存在がなかったら真に愛でることはできないのではないか、
というのが私の直感です。

何ら論理的な根拠はないので、これは持論ではありません。
直感です。
これは直感としか言いようがありません。

もし、AIプログラムでできた音楽でその場で踊ることができたとしても、私達は何十年もそれを「愛でる」ことができるだろうか
感銘を受けることができるだろうか
そして、ずっと後でもやはり踊るのだろうか
楽しく聴けたり、見たり、読めたりするものだろうか
そういうものがAIから出てくるかこないか

今後、作品をブラインドテストで聴いて検証する研究もこれから出てくるかもしれません。

直感力

私自身は、感動や愛でる気持ちを誘発するものは、AIからの表現には出てこないのではないか、と思っています。

一方で、もしかしたらこれからの新しい世代、若い世代は感動したり継続して愛でることができるのかもしれない、とも思ったりします。
人類の新しいフェーズ、というのはもしかしたらこの価値感の断裂なのかもしれない。

ひょっとしたらなにか違う形として出てくるかもしれない
もしかして、AIが作ったものに感動した「振る舞い」を見せり、価値が理解できるのはAIだけだったりして。

と、もはや私の直感も漂流してバラバラな状態です。

論理ではなく、こんなにも直感を駆使する状態というのが、私自身久しぶりなので大いに戸惑っていますが。

AIのできることの変化もすごい速さで変わっていっているのもあります。

でもまあ、人間もいい加減なものだから、あちらが良いといえばなびき、こちらが良いと言われればまたなびく、そんないい加減な部分も人間たる所以です。

今、試されるかもしれない、のび太力(りょく)

生成AIはドラえもんのひみつ道具並だと言いましたが、ここに至ってのび太の凄さが立ち現れてくるように思います。

みんなが便利だ、すごい楽ができる、と称賛のドラえもんのひみつ道具ですが、のび太はそんなドラえもんのひみつ道具を使ってたちまち騒動を起こします。
狙ってないのに大変な事態が引き起こされる。
あの、のび太のエラー力、というかひみつ道具の普通じゃない使い方はハッキング精神の元祖
だからドラえもんというお話は面白いのかもしれません。

普通はこうするでしょ、
そうしたらこうなるでしょ、
それでこういう結果になるでしょ

そんな予定調和の連続の世界でのび太は予想外のわが道を行く。

そんなズルい使い方があったのか!
そんな変な使い方があったのか!
そして挙げ句にドツボにはまったのび太をゲラゲラ笑うわけです。
笑いながら痛快に感じる。

なぜ痛快に感じる?

それは私達の方が予定調和の世界にどっぷり浸かっているから。

私達は生成AIに驚き、感心するのは、予定調和の中でできることがどんどんAIに成り代わっていくのを目の当たりにしているからかもしれません。
最近では滑らかなアニメーションまで生成AIで作れるようになってきたし、1枚の顔写真から歌ったり喋ったりするアニメーションが作られるようになってきています。
プロンプト(言葉)からそれらしい音楽を生成するAIも出てきています。
それは今までは人間が想像力で補間しながら作っていたものだからです。
それがAIに成り代わっていくことに驚き、一部の人達は恐怖しています。

では、のび太のような予定調和の外に進むことができたら?
そういう体質というか思考の癖のようなものがあったら?

上質なものを生み出すではなく、変なものを生み出すことに価値が出る

そこに、これから先のクリエイティブの鍵がある気がしてなりません。

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