「男の子はむずかしい」という母親へ

母親は女性たるおのれの感性を頼りに、息子に向き合ってはならない。
男は共感されるとみじめな気持ちになる。共感というより「同情」といったほうが的確かもしれない。ともかく男というものは、へんに寄り添われると心萎えるものなのだ。
「そんなの悩みのうちに入らないわよ」と背中をバンと張られたほうが気持ちが晴れる。男が欲しているのは「共感」ではなく「激励」なのだ。
だが、そんな男心をわきまえた女性はきわめて少ない。
むろん、これは逆もまた真なりだ。「そんなの悩みのうちに入らないよ」などと“激励”してしまうと、「冷たい人」認定されてしまう(私はこれまでこれで何度もしくじってきた)。
巷間よく言うように、女性は悩みを解決することよりも、悩んでいる自分に共感してもらいたいようである。
そんな反応のズレが男女のすれ違いを生む。これが夫婦ならせいぜいケンカ程度ですむが、母親と息子という関係となると事態は面倒なことになる。
息子が思春期を迎える頃、世の母親は「男の子は難しい」とぼやく。
だが、これは「難しい」息子に問題があるわけではない。母親が男というものに対する学びが浅く、理解が低すぎることに問題がある。おそらく彼女は、夫のことも「難しい」としているのであろう。
男性が女性という別種の生き物をよく学び理解すべきであるのと同様に、女性も男性という別種の生き物をよく学び理解すべきだ。
母親は女性たるおのれの感性を頼りに、息子に向き合ってはならないのである。

母親の「変な気遣い」が息子を消耗させる。
自覚はないだろうが、世の母親の多くは「騒々しい」。息子は母親の「騒々しさ」で消耗している。
口うるさく注意したりガミガミ叱りつける母親はもちろん騒々しい。一方、こまごまと世話を焼こうとする母親も騒々しい。
だが、息子にとっていちばんこたえるのは、じつは「変な気遣い」をする母親である。
息子についての話や聞かせたくない話になると、とたんに声をひそめる母親がいるが、これなど典型的な例だ。
子供のためを思っての配慮であろうが、自分についてなにやら取り沙汰されていると、心中穏やかでなくなるのは当然だ。
この手の母親は「子供のため」という旗を掲げて、平然と夫とケンカするが、これなど本末転倒もいいところだ。子供にとっての苦痛の最たるものは、そんな母親の騒々しさにあるからだ。
子供の学校に乗り込む母親。子供の些末な体調不調にうろたえ、すぐに病院だと騒ぎ立てる母親。こんな「子供のため」の懸命の言動が息子のストレス源に他ならない。
「落ち着き」と「静寂」が息子が心底求める環境であるという認識は、もっと共有されるべきであろう。
尚、これが娘だったら、「あり」かもしれない。息子にとっての「騒々しさ」は娘にとっては「愛情の発露」と映るだろうからだ。
息子を消耗する母親たちに悪気があろうはずがない。彼女は、自分がして欲しいことを息子にしているのである。
だが、「相手の立場に立つ」とは、幼い息子に「憑依」することであって、素のままの自分を息子の境遇に置くことではない。
「男の子は難しい」という母親に求められているのは、豊かな想像力なのだ。

母親の愛情たっぷり過剰対応が、息子を消耗させる。
何年か前のことだが、坊やが転んで、口元をすこし切った。
家内は駆け寄り、目を大きく見開いた仰天顔で傷口を見るなり、病院に行こうと騒ぎ出した。それを見た坊やは大泣きし始めた。
坊やの大泣きは、ケガが痛むからだけではない。母親の動揺を見て、「これはたいへんなことになった」と動転したからだ。
私はゆったりと歩み寄り、「なんだ、たいしたことないじゃないか。アイスでも食べよう」と穏やかに言った。
すると坊やは泣きやんで、口元から血を流しながら、私とコンビニに行った。
瞬時、家内は「なんて冷酷なことを言うんだ」という態度をとったが、それを私は目顔で押さえ込んだ。以前なら、ここから大騒ぎになったのだが、今回はこれで収束した。
男心にうとい家内ではあるが、男女によって感じ方が違うということを次第に学習してきたようだ(とはいえ、母親が子供のケガに冷淡であれというわけではない。それは最悪だ)。
かように、男女の感性とは根本的に異なる。私が言いたいのはそういうことだ。
もし、転んでケガをしたのが娘だったら、私も「大丈夫か! 病院行こう」と“共感”モードで接するだろう。
このように、子供とはいえ、態度と言動は、男女で使い分けるべきなのである。
こうした分別は、長男と次男以下でもなされるべきであるが、世の母親の多くは、ここでも過ちをおかしている。

長男を別格扱いすることで、すべて好転する。
坊やは男だ。幼少期から褒めたたえてきたら、ずいぶん泰然としてきた。分別も知性も、6歳児にしてはたいしたものだと思う。
そんな坊やであるが、2年前に危機を迎えた。それは妹の誕生である。
こういうとき、家族の愛情や注目が妹に一気に傾き、お兄ちゃんはさみしい思いをするものだ。
それが原因となり、やきもちを焼いたお兄ちゃんが妹をいじめ、その後の兄妹仲の悪さにつながるケースがままある。
私は妹の誕生を前に、元々忙しくなかった仕事をさらに暇にした。そして、娘が生まれるや、坊やと毎週のように、旅行してまわった。
泊りがけの夜は、居酒屋のカウンターに並んで腰かけ、「お前は最高だぞ」と繰り返し語りかけた。
坊やとの強固な絆は、この期間に築かれたといっていい。
もしこの時期、仕事で多忙を極めていたら、父子の関係が深まることはなかっただろう。さらには、母親に反抗的になったり、妹につらくあたるようになっていたかもしれない。
今でも、隣に住む甥や妹の誕生会の時などは、一族みんなの関心が彼らに向けられる。
そんな時、さみしそうにしている坊やを見ると、私は隣にどっかり座り、坊やに集中する。
父親にここまで本気で向き合われていれば、情操が安定するのも当然だ。いずれ、坊やが親父になったら、息子にそうしてやって欲しい。
ところが、世の親の多くは、まったく逆の向き合い方をしている。これについては、次回述べるとしよう。

「お兄ちゃんなんだから」で長男はくじける。
戦後没落したのは父親だけではない。長男の地位も没落した。
家父長制下、長男は別格であった。財産はすべて長男が相続し、家によっては、別室でひとり食膳が用意されることもあった。
なぜこのように厚遇されたのかといえば、一つには、家の繁栄につながるという理由があげられる。
今ではすっかり解体してしまったが、かつての「イエ」は事業体であった。商家はもちろん、農家にしても"企業"であった。
企業で欠かせないのが統治。リーダーを中心に結束しなければ、組織の平和と繁栄はなしえない。
リーダーが多少ぼんくらでも、フォロワーたちが盛り立てていこうと思えば、組織は繁栄するのである。リーダーシップよりもフォロワーシップ。これが日本型組織の要諦といえよう。
もう一つの理由は、長男の人格への悪影響を配慮してのことだ。
長男にとって、あとから生まれてくる弟や妹は生存上のライバルとなる。
それまですべて受け取ってきた愛情や待遇が次々に奪われてゆく痛烈さを想像できるだろうか。
さみしくて悔しくて、時には我がままを言いたくもなる。まだ幼いのだから無理もない。
そんな時、「お兄ちゃんなんだから!」と一喝する母親が見られるが、これほど痛切な場面はない。
第一に、そんな言葉で納得できるほど、長男たちは成熟していない。不毛な働きかけでしかない。
また、妹や弟の前で恥をかかされた長男が、その時どんな気持ちでいるのか、もっと想像力を働かせねばなるまい。
私は公衆の面前で、坊やを叱りつけることは絶対にしない。必要があれば、私の書斎に呼びつけて、おだやかに言い聞かせる。
むしろ娘に対して「お兄ちゃんはえらい」「お兄ちゃんの言うことを聞きなさい」と躾けている。
すると、娘は兄を慕うようになり、兄は妹を思いやり、よく面倒をみるようになった。
長男への対応ひとつでこんなに違ってくるものなのだ。
長男を別格扱いすることで、すべてが好転する。陳腐な「平等主義」は家庭文化を淀んだものにするだけなのだ。

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