消え方が綺麗なら消えたままでいい

今日、何気なくTwitterを開いたら懐かしい名前と懐かしい顔があった。表舞台から一旦身を引いた人である。私が高校2年生くらいの時にハマって、父とよく動画を見ていた人だった。

彼の身の引き方は驚くほど綺麗だった。今まで出た動画を全て消すなどという、謹慎や自粛という雰囲気は出さないし、それでいてTwitterやInstagramは綺麗に消した。アカウントも残さない徹底ぶりで、この人はやめることで注目を集めたいわけじゃない、普通の一般人に戻ったんだ、と思わされた。

彼が消えた直後は、私も「帰ってきてくれないかな」と何回も思った。しかし、実際帰ってきた今、何か違和感を感じて復活を喜べないでいる。

それはきっと、消え方が綺麗なら消えたままでいい、という理論なのだと思う。終わり方が綺麗なものは、またそれを引きずって始めてもいいことはない。最高のエンディングだったドラマの特別版がなんだか違うような、なんだかそんな気分を味わっている。進展しないものは、進展しないだけ美化される。

典型的な例が山口百恵だと思う。さよならの向こう側という曲を出して、引退コンサートをして、綺麗に去ってからあとは姿を見せない。見せないから、伝説なのである。復帰などと銘打って安売りしないのである。綺麗に去った人には表舞台に未練を残していて欲しくない。

もちろん彼が何をしようと勝手だ。私が何か言う筋合いはない。けれど、一度意志を決めて表舞台から去ったのに、戻ってきちゃうんだ。という少しの失望感があった。私は彼を勝手に美化していたことに気付かされた。一点、前の仕事をやめた理由については話さないしこれからも話すつもりはない、という姿勢だけは私が美化した偶像の彼と同じで安心するなどした、勝手に。

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