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(浅井茂利著作集)骨太かつ威圧的な経団連・経労委報告

株式会社労働開発研究会『労働と経済』
NO.1599(2016年2月25日)掲載
金属労協政策企画局長 浅井茂利

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 すでに2016年春闘も本格的な交渉段階の時期となっていますが、今年も1月19日、春闘に臨む経営側としての基本姿勢をとりまとめた『2016年版経営労働政策特別委員会報告』が経団連から発表されました。
 本年の特徴を一口で言えば骨太かつ強圧的、ということになるのではないかと思います。従来のように、賃上げ抑制のための材料をいくつも揃えるのではなく、
①収益が拡大した企業で
②自社の支払い能力に基づき
③各社の収益に見合って
④ベースアップに限られず
⑤年収ベースの引き上げ
という一点張り、非正規労働者の賃上げや長時間労働の解消には、比較的前向きのように見えますが、中小企業の賃上げは強く否定、消費拡大には所定内賃金の引き上げが必要とする厚生労働省の指摘は完全に無視、社会保険料に対しても企業がコントロールできないと不平をもらし、非正規労働者の正社員への転換は限定正社員で、と主張しています。
 デフレ脱却、持続的成長、経済の好循環というキーワードにも一応触れていますが、上記の5条件がそうした社会的要請に応えるものでないことは明らかです。

従来同様の支払い能力論

 経労委報告では、「物価動向や労働力の需給関係、世間相場」「デフレからの脱却と持続的な経済成長の実現に向け、経済の好循環を回すという社会的要請」などについて、2016年の労使交渉・協議における考慮要素として、一応掲げてはいます。しかしながら、賃上げに関しては、「収益が拡大した企業」で、「自社の支払能力」に基づき、「各社の収益に見合った」賃金引き上げ、しかも、「ベースアップに限られず」、「年収ベースの賃金引上げ」で、と主張しており、これでは「失われた20年」と言われる長期にわたるデフレ時代の経営側の主張と、どこが違うのだろう、ということになります。
 本当に「自社の支払能力」に基づいて賃金を決定していたら、超優良企業では大変な額の賃金になると思いますが、そうではなくて、ある程度の幅を持ちつつも、日本全体の付加価値を勤労者全体で分かち合う、日本全体の生産性向上を勤労者全体の生活向上に反映させるというのが、賃金の社会性ということだと思います。また、産別統一闘争を展開し、当該産業の仕事にふさわしい賃金水準を追求するというのが公正労働基準、そして同一価値労働同一賃金の考え方です。
 後述するように、経団連は支払い能力の乏しい企業に対し、厳しく賃上げを戒めていますが、それならば超優良企業に対してば大変な額の賃金を支払うよう指導しなければ整合性がとれません。そうしたこともなしに、支払い能力を云々するのは、公正な姿勢とは思えません。

中小企業の賃上げは強く否定

 中小企業に関しては、「大手企業と同等あるいはそれ以上の支払能力を有する中小企業は少数にとどまる」「各企業の支払能力に基づかない要求を掲げることは、建設的な労使交渉・協議の妨げになるだけでなく、自社の労使関係に悪影響を与える」として、中小企業労使に対して、威圧的とも言えるほど強い調子で、賃上げ否定を主張しています。
 これは政権に対する手前、有名企業については、賃上げは避けられないものの、中小企業の賃上げは可能な限り抑え込もうということなのかもしれません。

厚労省を完全無視

 厚生労働省が昨年発表した「平成27年版労働経済白書」の目玉は、何と言っても所定内賃金引き上げの消費拡大効果の分析です。
 白書では、
・所定内給与が1%増加した場合にマクロの個人消費を0.59%増加させる影響がある一方で、所定外給与が1%増加した場合は0.09%増、特別給与が1%増加した場合は0.13%増の影響しかない。
・賃金上昇の中身が所定内給与であった場合、家計は積極的に消費を増やすものの、賞与等の特別給与の増加による場合は消費への影響が限定的。
・賃金の支払い形態によって消費への反応は異なっており、いわゆるベースアップに伴う所定内給与の増加など恒常的な賃金上昇が期待される場合には、消費に対して大きな影響がある。
・政府が目指す経済の好循環が継続するためには、企業収益を労働者へと分配する際に、賃金面においてはいわゆるベースアップに伴う所定内給与の増加が重要。
と指摘しています。
 これに対して、経労委報告は反論はおろか、完全無視の態度をとり、従来同様、「月例賃金の一律的な水準引上げ(全体的ベースアップ)に限られず」「年収ベースの賃金引上げ」を検討せよ、「月例賃金より金額ベースでの引上げが総じて大きい賞与・一時金の増額」は、「業績の短期的な変動に柔軟に対応でき」「有効な選択肢」と主張しています。
 厚労省の計算では、所定内賃金引き上げの消費拡大効果は、一時金引き上げの約4.5倍になるので、所定内賃金を3,000円引き上げた場合と同等の消費拡大効果を一時金の引き上げで得るためには、年間162,000円(3,000円×12カ月×4.5)引き上げる必要があります。また、仮に一時金の引き上げを「賃上げ」とするなら、一時金の引き下げは「賃下げ」になりますから、労働組合としては「賃下げ」回避のため、一時金下支えの取り組みを相当に強化せざるをえません。そうすれば、一時金も安定的な収入となって消費拡大効果も向上します。賃上げではなく一時金で、と言うのであれば、そういったことについても見解を明らかにすべきだと思います。

非正規労働者の正社員への転換は限定正社員

 経労委報告では、非正規労働者の正社員・無期雇用への転換や処遇改善に関しては比較的前向きです。それは大変結構なことなのですが、中身を見ると、転換は、一般的な正社員ではなく、労働時間や勤務地、職種などを限定する「限定正社員」が前提となっています。「限定正社員」の仕組みは、あくまで従業員のニーズに応えるためのものでなければならず、「賃金の低い無期雇用」として活用しようとすれば、戦前の職員・工員の格差の復活につながりかねません。
 経労委報告でも、限定正社員制度の導入に伴う「トラブル発生」に注意を喚起していますが、非正規労働者が一般的な正社員ではなく、「不本意限定正社員」ということになれば企業もさまざまなリスクを抱えることになるのではないでしょうか。

非正規労働者の処遇改善と総額人件費管理

 非正規労働者の処遇改善を積極的に進めるべきは当然ですが、単に「近年の労働需給の逼迫」に対応するだけでなく、均等・均衡待遇、同一価値労働同一賃金の観点に立った底上げ・格差是正が行われなければなりません。
 また、「非正規労働者の処遇改善については、正規・非正規で区分することなく、自社における総額人件費管理のもとで考えるべき」と主張していますが、これは端的に言えば、非正規労働者の賃金が上昇する中で、正社員の賃金を抑制せよということになります。
 こうした主張は、ゼロ成長・マイナス成長、デフレの時代であれば、かなりの説得力を持ちますが、デフレ脱却、持続的成長、経済の好循環をめざす中では、そぐわないものと言えます。そもそも、経済があるべき方向に向かっているからこそ、労働市場において人手不足が生じ、市場経済原理に則って非正規労働者の賃金が上昇しているわけです。人手不足が生じた結果として「総額人件費」が拡大することは、企業経営にとっても、マクロ経済にとっても、本来望ましく、また必要であるはずです。デフレ時代の発想そのままに総額人件費を抑制しようとすれば、むしろ市場経済原理に反し、「経済の好循環」にブレーキをかけることになってしまいます。「正規・非正規で区分することなく」、すべての従業員の所定内賃金の引き上げを行っていくことが、不可欠だと言えるでしょう。

社会保険料にも不平

 経労委報告では、社会保険料負担に対しても、「企業がコントロールできない」と不平をもらしています。もちろん勤労者の立場からしても、人情的には社会保険料は安いほうが好ましいですし、現行の社会保障制度には問題が多いという認誠は、労使共通していると言えるでしょう。しかしながら、「企業がコントロールできない」からといってこれを批判するのは、不適切ではないかと思います。企業は何でもコントロールできないと気がすまないのか、という印象を与えてしまうことになります。社会保険料は、少なくとも議会制民主主義のコントロールの下にあり、社会保障審議会には経団連からも参加しているのですから、議会制民主主義を通じて、よりよい社会保障制度を追求していくべきであると思います。

強固な国内経済を

 本稿執筆の時点と本誌発売の時点では、タイムラグがありますので、発売時点でどのような経済状況となっているのかは、まったく想像できません。昨年6月の上海株式市場の暴落以降、中国経済の先行きとその世界経済・国内経済への影響がきわめて懸念されるところです。
 こうした中で、日本として重要なことは、「世界経済のさまざまな変動に耐えうる強固な国内経済、産業・企業活動、国民生活を構築していく」ことに尽きるのではないでしょうか。アジア諸国を見ても、中国近隣諸国すべてが不振なわけではなく、フィリピン、ベトナムなどは好調を続けています。中国経済の減速により、企業収益に大きな打撃を受けているとすれば、グローバルな調達、生産、販売のあり方に関して、再検討すべきだと言えるでしょう。
 本来、個人消費は、景気変動の影響を受けにくく、経済の安定化装置の役割を果たすはずですが、勤労者に対して一時金に片寄った配分が行われ、非正規労働が拡大していると、経済環境が悪化した際、むしろ景気下押しの圧力として作用してしまいます。個人消費が本来の役割どおり、国内経済の安定化装置として機能するよう、企業として、継続的な賃上げと非正規労働者の正社員への転換を進めていくことが重要です。
 2008年のリーマンショックの際、日本への影響は当初、「蚊に刺された程度」と指摘されていましたが、結果的に先進国中で最も大きな打撃を受けることになったのは、金融緩和の度合いがアメリカやユーロ圏に比べて過少であったことに加え、個人消費を中心とした内需が脆弱であったためと思われます。その轍を踏まないようにしなければなりません。
 先述の『平成27年版労働経済白書』によれば「経営者側は1954年から①物価上昇を賃上げに反映させない、②経営状態に応じた賃上げをする、③生産性向上がなければ賃上げしないといった主張を展開」してきたということですが、今回の経労委報告も、この路線を踏襲したものと言えるでしょう。
 賃金決定に責任を持つ民間企業労使としては、中小企業も含めたすべての組合で、継続的に、正社員・非正規労働者に関わらずすべての従業員に、所定内賃金の引き上げを行っていくことの重要性・必要性を踏まえ、真撃な議論を積み重ねていくことが重要です。こうした姿勢は、企業に対し株主還元の強化を要求して、短期的にリターンを得ようとする投資家を遠ざけ、株式を永続的に保有し、長期的にリターンを確保しようとする投資家を引き寄せることになるのではないでしょうか。

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