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2024年春闘想定問答集(4)定昇論

2024年2月9日
一般社団法人成果配分調査会代表理事 浅井茂利

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 この「2024年春闘想定問答集」は、個別企業における労使交渉の主に前段において、一般論、マクロ論として取り上げられることが想定される論点について、労使としてとるべき考え方を整理したものです。内容的には、「2024年春闘の論点」シリーズの他のレポートとかなり重複していますが、状況に即して新しい情報を追加しており、また、一問一答形式になっていますので、都度、ご参照いただければと存じます。
 なお、この「定昇論」は、「2024年春闘想定問答集(3)物価」における定昇の説明をさらに詳しく行ったものです。

「わが社」には定昇制度がなく、「定昇相当分」と言われてもどうしようもないのではないか?

 2023年の厚生労働省「賃金引上げ等の実態に関する調査」によれば、一般職について「定昇制度あり」と回答した企業は83.4%、管理職についても77.7%に達しています。一般職に関して企業規模別に見ても、5千人以上が89.1%、1,000~4,999人が83.8%、300~999人が90.1%、100~299人が81.2%ですから、小規模企業はやや少ないとは言え、それでも8割に達しています。
 ただし、同じ調査で「定昇制度がある企業」のうち、「定昇とベア等の区別あり」と回答した企業は67.6%に止まっています。従って、
①定昇制度がある企業で、かつ定昇とベアの区別がある企業:56.4%
②定昇制度はあるが、ベアとの区別はない企業:27.0%
③定昇制度のない企業:16.6%
ということになります。
 厚労省調査への回答の如何に関わらず、会社見解として「わが社には定昇制度がない」という場合、③だけでなく、②のケースが含まれていることもあるのではないかと推測されます。
 また、③の場合でも、たとえば同じ役職・同じ評価の人で、30歳の人と40歳の人の賃金がまったく同じなのかどうか、もしそうであれば、「定昇制度なし」と言えると思いますが、40歳の人の賃金のほうが高ければ、定昇制度はないとしても、定昇相当分はある、ということになると思います。

そもそも、定昇とは何か?

 定昇の一般的な定義は、その企業の賃金制度(賃金表)に則って行われる昇給で、毎年時期を定めて行われるもの、ということになります。経団連では制度昇給と言っています。なお個別企業では、企業ごとにそれぞれの定義があります。
 これに対して、ベースアップ(ベア)は、賃金表の書き換え、賃金表に記載されている賃金額の引き上げ(制度改定)です。
 東京都職員(大卒・事務)の場合を例にとると、2023年度に9年目だった職員が2024年度になると、定昇7,100円、そしてベースアップが仮に4%とすると10,900円で、合計18,000円の昇給が行われることになります
          現行(2023年度)  賃金表の書き換え(2024年度)
9年目(2級33号給) 266,200円      276,800円(仮に4%)   
            ↓ 定昇7,100円
10年目(2級37号給) 273,300円  →   284,200円(仮に4%)
              ベースアップ10,900円

 定昇に類似の概念として、定昇相当分、賃金カーブ維持分、賃金構造維持分、1年・1歳間差などというものがあります。賃金表はないのだけれど、1年経てば昇給しています、というような場合は、これらに該当します。本稿では、とりあえず一括して「定昇相当分」と呼ぶことにします。
 次に定昇や定昇相当分の意味合いは何か、ということですが、
①従業員のそれぞれの年齢における職務遂行能力の向上に見合った購買力の引き上げ
②従業員のそれぞれの年齢において必要な生計費の増加を踏まえた購買力の引き上げ
ということになります。

職務遂行能力はずっと向上していくわけではないのではないか?

 定昇や定昇相当分が「職務遂行能力の向上に見合った購買力の引き上げ」であることについて、職務遂行能力はずっと向上し続けるわけではないから、一定の世代に達して以降の定昇は不合理である、という見方があるかもしれません。
 もちろんすべての能力が向上し続けるわけではありませんが、スピードや筋力を要するような能力を除けば、中高年層になったからといって、衰えるものではありませんし、たとえば、
規律性、協調性、責任性、改善意欲、信頼性、安全意識、知恵・知識、コミュニケーション能力、計画力、折衝力・交渉力、情報収集力、バランス感覚、営業トラブル対応力、お客さまクレーム対応力、ストレス耐性、統率・管理力、問題解決力、関係形成力、指導育成力、目標達成のための努力、仕事の質・正確さ(荻原勝『人事考課制度の決め方・運用の仕方』2018年、経営書院を参考にして抽出)
などといった職務遂行能力は、年齢を重ねることによって一層向上する、少なくとも、年齢を重ねても向上し得る能力だと思います。中高年層では職務遂行能力は向上しない、と思い込んでいないかどうか、注意が必要です。もし「わが社」では中高年層の能力が向上していないというのであれば、それは中高年層の人材活用のあり方が、そうした能力を発揮させるものとなっていないからなのではないでしょうか。発揮させる機会のない能力を向上させることは、困難です。
 戦争の勝敗を決めるのは、結局「兵站(へいたん=ロジスティクス)」であると言われています。「戦争という仕事の10分の9までは兵站だ」「戦争のプロは兵站を語り、素人は戦略を語る」と言われます。企業活動では、若年層を最前線、中高年層を兵站に例えることができるかもしれませんが、兵站を軽視する企業に未来がないことは明白です。岸田内閣の「三位一体の労働市場改革」が想定するような、中高年層の賃金水準をさらに引き下げて、社外に追い出したりするようなやり方が、人手不足の時代に通用しないことは明らかです。

賃金は労働の対価であって、生計費は関係ないのではないか?

 賃金は、労働の対価です。だからこそ、賃金は、労働力を生み出すために必要なコストを上回るものでなければなりません。
 わが国産業界では、公正取引、適正な価格転嫁の実現が最重要課題となっています。
*商品・サービス市場において、資源・エネルギー価格や人件費の上昇を適正に製品価格に転嫁することはもちろん、
*労働市場においても、物価上昇という、労働力を生み出すために必要なコストの上昇を、労働力の価格である賃金に適正に転嫁できなければなりません。
 労働力を産み出すために必要なコストを「労働力の再生産費用」と言いますが、ふたつの種類があります。
日々の労働力の再生産費用
 従業員が1日働いて、次の日にまた働くためには、食事をし、入浴し、睡眠をとり、着替えなくてはなりません。これらに必要な費用が日々の労働力の再生産費用となります。終業後や休日・休暇における余暇活動の費用なども同様です。
次世代の労働力の再生産費用
 企業は、現役世代の労働力を使用しているわけですが、その対価として支払われる賃金の中に、子どもの養育費を賄う部分が含まれていることによって、社会全体として、次世代の労働力を確保することができるわけです。森林を伐採した企業は、植林を行う必要があります。現金で建てられたアパートの家賃には、そのアパートの建て替え費用が含まれているはずです。そうした場合と同じことで、賃金には、子どもの養育費が含まれていなければなりません。

 結局、賃金と生計費とを切り離すことはできません。従業員の年齢が上昇すれば、子どもの養育費=次世代の労働力の再生産費用が増加していきますので、定昇や定昇相当分はこれに対応するもの、ということになります。
 高等教育を無償化すれば、年齢が上昇しても次世代の労働力の再生産費用は増加しないのでは、という考え方があります。しかしながら、高等教育の無償化は、格差の固定化を促す補助金となるため、オーソドックスな経済学では推奨されていません。(好ましい政策は、返済不要の給付型奨学金やいわゆる出世払い奨学金の拡充ですが、当然、所得により対象者が絞られます)
 また、たとえ大学の入学金や授業料が無料になったとしても、高校や大学に進学するための学習塾などの費用が必要です。学習塾も家庭教師も禁止するか、あるいは逆に学習塾の費用も公費負担にすれば解消されますが、どちらも非現実的です。
 定昇や定昇相当分が、職務遂行能力の向上を反映するだけでなく、従業員の年齢の上昇による、次世代の労働力の再生産費用の増加に対応するものである以上、その実施は、従業員にとって不可欠であるだけでなく、企業にとって社会的責任であることは明らかです。
 もちろん、若年層に対しても、子どもの将来の養育費を賄うのに十分な高い賃金を支給しているという場合には、定昇や定昇相当分がなくてもよい、ということになるかもしれません。けっして荒唐無稽ではなく、日本の賃金水準、労働分配率、売上高人件費比率の低さからすれば、そうした支払い能力は十分あるはずです。ただしその場合でも、職務遂行能力の向上をどう賃金に反映させるかという問題は残るものと思われます。

定昇や定昇相当分の実施によって、企業の負担がさらに増すのではないか?

 定昇や定昇相当分は、基本的には内転原資(退職者の賃金で、新入社員の賃金と、継続して勤務している従業員の定昇や定昇相当分を賄うということ)であり、企業にとって追加の負担とはなりません。
 ただし労務構成によっては、退職者の賃金では賄いきれずに企業の「持ち出し分」が発生する場合がありますし、逆に退職者が多く、原資が余ったりすることもあります。
 創業からの年数が短い企業では、定年退職者、継続雇用退職者がいないので、定昇や定昇相当分が、ほぼそのまま「持ち出し分」になることがあります。しかしながらそれは、長く続いている企業に比べて、もともと人件費負担が軽くて済んでいたのが、年々少しずつ、長く続いている企業の人件費負担に近づいているということにすぎません。若い企業から成熟した企業になっていくプロセスで発生する不可避の負担であり、甘受しなくてはなりません。

定昇制度のない企業では、どう対応するのか?

 定昇制度のない企業では、産別の指導に則り、早急に定昇制度を確立する必要があります。そもそも中小企業では、定昇制度の有無以前に、賃金制度そのものがない企業が少なくないものと思われます。定昇制度を持った賃金制度を確立し、賃金水準や昇給に関して透明性が確保されれば、従業員同士が疑心暗鬼になることを防ぎ、モチベーションやエンゲージメントの向上に寄与することになります。
 定昇制度のない企業の当面の対応としては、ベースアップとは別に、「定昇相当分」の昇給を行うということになります。「定昇相当分」はそれぞれの産別が目安を示しているはずですが、おおむね「2%」になっていると思います。2022年の厚生労働省「賃金引上げ等の実態に関する調査」では、定昇は平均で1.7%となっており、2%よりもやや低いのですが、定昇の定義は企業ごとにかなり異なっていて、たとえば「年齢給」の昇給のみを「定昇」と呼んでいる場合などもあります。一般的に、定昇は賃金カーブ維持分、賃金構造維持分、1年・1歳間差よりも小さくなる傾向があると思われますので、定昇相当分を2%とみなすことは過大ではありません。
 具体的には2%の定率、もしくは、平均賃金の2%にあたる金額を定額で昇給させるというのが、現実的なやり方だと思います。

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