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賃上げ交渉では、物価下落を想定する必要はない

2022年12月19日
一般社団法人成果配分調査会代表理事 浅井茂利

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 2023年春闘の焦点が、物価高騰に対しての実質賃金維持の成否であることは、言うまでもありません。実質賃金が維持できないということは、生活水準の低下を意味するわけですから、労働組合だけでなく会社側からしても、従業員の生活防衛のため、「物価上昇率をカバーする」ベースアップは当然だと思いますが、現実には、「物価上昇率をカバーする」ことを当然の前提とした春闘にはなっていないように見受けられます。
 とくに、「物価上昇率をカバーする賃上げ」を行うのであれば、物価が下落した時は賃下げをしてよいのか、という反応が経営側から示される可能性があります。労働組合としては、
*今後は、物価下落の発生する可能性はきわめて低く、従来のデフレマインドから脱却して、継続的な物価上昇を前提とした労使交渉を行っていく必要がある。
*万が一、物価下落が発生したとしても、あくまで例外的、一時的であり、企業としては、所定外賃金の減少や一時金の抑制で対応が可能である。
ということを、しっかりと主張していく必要があります。

2022年度の平均上昇率は3%超えが確実

 2022年度通期の消費者物価上昇率は、日本銀行や民間調査機関による「生鮮食品を除く総合」の予測で2.8%から2.9%程度となっていますが、生鮮食品を加えた「総合」では、2022年11月(推計値)が4.0%、4~11月の平均がすでに2.9%となっており、通期では3%を超えるのが確実と思われます。
 調査機関やマスコミでは、「生鮮食品を除く総合」を消費者物価上昇率の代表的な指標として使用していますが、生鮮食品は最も重要な生活必需品であり、賃上げの要求策定や労使交渉の材料として消費者物価上昇率を検討するに際し、その価格の動向を除くことはできません。
 また、消費者物価指数を構成する品目の中で実際には支出されない「持家の帰属家賃」を除いた消費者物価指数である「持家の帰属家賃を除く総合」の上昇率を見ると、2022年11月(推計値)が4.7%、4~11月の平均が3.5%となっています。
 「持家の帰属家賃を除く総合」の中でも、節約や買い控えが困難な「基礎的支出項目」の物価上昇率を見ると、2022年10月が5.5%、4~10月の平均が4.8%となっています。物価高騰による家計への打撃は、「総合」が示す数値よりもずっと大きいと言えます。

実質賃金は2~3%台のマイナスが続いている

 こうした物価の高騰を受けて、実質賃金は2022年4月以降、前年同月比マイナスで推移しています。一般労働者については、とりわけ製造業の所定内給与のマイナスが大きなものとなっています。パートタイム労働者の現金給与総額では、全体としてはプラス基調が続いていますが、卸売業・小売業では2%程度のマイナスが続いています。

物価上昇を賃上げ根拠に挙げづらい状況が続いてきた

 かつての春闘では、消費者物価上昇率が最重要の賃上げ根拠でした。労働組合にとって、組合員の雇用と生活の防衛が最大の使命です。「物価上昇率をカバーする賃上げ」が行われなければ、組合員の生活水準が低下してしまうのですから、これを放置しておくことは許されません。物価が3%上昇すれば、30万円の賃金は29万1千円の価値になってしまいます。仮に1%の賃上げがあったとしても、29万4千円です。これが5年間続いただけで、30万円は27万1千円の価値になってしまうのです。労働組合として、格差是正をめざして「賃金水準重視の取り組み」を展開し、たとえば現行25万円の賃金を5年間で30万円に引き上げることができたとします。しかしながら、その間に毎年3%の物価上昇があれば、5年後の30万円は25万8千円の価値しかありません。
 会社にとっても、少なくとも「ステークホルダー資本主義」、「新しい資本主義」の下では、従業員の雇用と生活の防衛が企業の最大の使命であり、それを実現していくことによってはじめて、企業の持続的な発展と株主の長期的な利益も実現するということになるのだと思います。
 ところが、昨今の春闘では、消費者物価上昇率を賃上げ根拠とすることが憚られるような雰囲気があったことは否定できません。これには、1990年代後半以降の「失われた20年」がまさにデフレ経済であり、物価の下落、すなわち消費者物価上昇率がマイナスとなる場合が少なくなかったことが原因であろうと思われます。物価上昇率がプラスになることもあれば、マイナスになることもあるというような状況では、物価上昇率を賃上げ根拠にすると、「では、物価が下がった時は賃下げですね」ということになってしまいます。労働組合として、人員整理の次に避けたいのが賃下げですから、消費者物価上昇率を賃上げ根拠に挙げにくい状況が続いてきたわけです。

マイナスの消費者物価上昇率は異例なことである

 しかしながら本来、消費者物価上昇率が年単位でマイナスになるというのは異例なことです。たとえば、日本を除く主要先進国プラス韓国の7カ国について、最近50年間における年ごとの消費者物価上昇率を見てみると、50年間×7カ国の計350年間のうち、消費者物価上昇率がマイナスになったのは、4回しかありません。「100年に1度」と言ってもよいほどで、物価上昇率がマイナスになるということがいかに異例なことかわかります。

 これに対し日本は50年間のうち12回ですから、異常に多いと言わざるを得ませんが、それでも24%にすぎません。
 日本がデフレ経済に陥ったのは、バブル崩壊の過程を通じて、「清算主義」という考え方が金融政策の中に反映されるようになったことによるものだと思われます。清算主義は、中央銀行(日銀)から金融市場への資金供給をタイト(引き締め気味)にして景気を冷やすことにより、人員整理や人件費の引き下げを促し、企業を筋肉質にして競争力を高めるという考え方です。日銀の正式な政策文書に記載されていたわけではありませんが、日銀総裁の講演録や日銀関係の出版物などを見れば、そうした意図は明らかでした。
 しかしながら、2013年の「量的・質的金融緩和」の導入以降、金融政策は根本的に変化しています。2013年以降でも、消費者物価上昇率がマイナスとなった年はあります(暦年では2016年の▲0.1%と21年の▲0.2%、年度では16年度の▲0.1%と20年度の▲0.2%)が、まさに例外的であり、マイナスも最小限度でした。マイナスが何年も続いた2000年前後や2010年前後とはまったく違っています。
 実際、民間調査機関の発表している中期的な経済予測を見ても、消費者物価上昇率のマイナスを予測している機関、予測されている年はありません。急激かつ大規模なコストプッシュインフレが発生したわけですから、コストプッシュ要因が収束すれば物価水準は下落する、と考えてもおかしくないのですが、そんな予測はありません。

 日銀短観(日本銀行「全国企業短期経済観測調査」)では、消費者物価上昇率に関する企業の見通しを調査していますが、平均的には、2022年12月の調査で、1年後には2.7%、3年後には2.2%、5年後には2.0%の上昇率が見込まれています。上昇率は「鈍化」する見通しですが、物価水準が「下落」するわけではありません。企業の割合を見ても、「-1%程度」以下と見ている企業はコンマ以下しか存在せず、「0%程度」を含めても10%程度にすぎません。企業の見方としても、もうデフレ経済には戻らない、というのがコンセンサスになっています。

物価の下落に対しては一時的な対応でよいが、物価の上昇に対しては恒久的な対応が必要

 「失われた20年」のデフレ経済の間は、消費者物価上昇率がマイナスになるのも珍しくなかったわけですが、企業としては、もはやデフレ経済には戻らず、物価水準は継続的に上昇し、下落するのはごく例外的なこと、一時的なこと、という前提で経営を行っていく必要があります。
 いま「インフレ手当」が話題となっています。2022年11月に帝国データバンクが行った「インフレ手当に関する企業の実態アンケート」によると、物価高騰をきっかけとして従業員に対し「インフレ手当」を「支給した」企業が6.6%、「支給を予定」している企業が5.7%、「支給を検討中」の企業が14.1%、平均支給額は一時金の場合で約53,700円、月額手当の場合で約6,500円となっています。従業員の生活防衛に対する企業の積極的な動きを示すものと言えるでしょう。
 しかしながら、例えば消費者物価指数が100だったのが、3%上昇して103になった、しかしその翌年にはまた100に戻った、というような状況であれば、103に上昇したのはいっときのことなので、その時だけ一時金や臨時的な月額手当を支払うということでもよいわけです。しかしながら、物価水準が継続して上昇していく状況では、物価指数が103に上昇すれば、その先もずっと103以上の生計費が必要になるわけですから、一時金や臨時的な月額手当では対応できません。インフレ手当を永遠に払い続けます、そのあと物価が上昇した分もインフレ手当にどんどん加算していきます、というのであればよいのですが、そうなると賃金体系がいびつなものになってしまい、とても現実的ではありません。
 ましてや、物価上昇率が3%の時はインフレ手当を支給するけれど、1%に鈍化したら支給しない、などという事例がもしあったとしたら、まったくまやかしの対応と言わざるを得ません。3%であろうと1%であろうと、物価上昇によって生計費のベースが上昇したのであれば、賃金のベースも引き上げなくては、生活水準が低下してしまいます。継続的な物価上昇に対しては、基本賃金の引き上げで対応しなくてはなりません。もちろん、各企業で現在支給されているインフレ手当は、2023年4月までの場つなぎであり、2023年春闘において、「物価上昇率をカバーする賃上げ」に転換されるであろうと期待しています。
 物価が下落した場合、企業業績は悪化する傾向となりますが、例外的、一時的な物価下落に対しては、企業は所定外賃金の減少や一時金の抑制でこれに対処することができます。基本賃金を引き下げる必要はありません。

「物価上昇率をカバーする賃上げ」は物価上昇を加速させるか

 「物価上昇率をカバーする賃上げ」を行った場合、それが企業にとってコスト増となり、コストプッシュインフレを加速させるのではないか、という主張があるかもしれません。
 しかしながら、「物価上昇率をカバーする賃上げ」は物価の「後追い」をしているだけであり、物価上昇を加速させることにはなりません。
 海外の資源価格が高騰し、企業にとってコスト増となり、販売価格が引き上げられ、物価が上昇しているというのが今回のメカニズムですが、そもそも市場に販売価格引き上げを受け入れることのできる購買力がなければ、コスト増があっても値上げすることはできません。
 たとえば売上高が100、そのうち海外の原料の割合が10という企業があったとします。海外の原料価格が30%上昇すると、コスト増は3なので、企業としては価格を3%引き上げたいことになりますが、もし市場に103を支払う購買力がなければ、企業は値上げして販売数量の減少を我慢するか、値上げをあきらめるかしかありません。販売数量が減少すれば、それはそれとして価格引き下げ圧力になります。この局面で、日本全体、すなわちマクロ経済全体で3%のベースアップが行われれば、ミクロレベルでも、この企業に対し103を支払う購買力が確保され、3%の価格引き上げを維持することができることになります。3%の賃上げは、3%の価格引き上げを維持しているだけで、「加速」しているわけではありません。3%の賃上げが物価上昇を加速させるという主張がもしあったとしても、それはブラフにすぎません。
 なお先の例で、売上高人件費比率を15%とすると、賃上げによる企業の負担増は0.45(15×3%)となります。0.45の人件費負担増で海外原料価格のコスト増3を賄うことができるわけですから、賃上げは企業にとって合理的な行動と言えると思います。逆に「物価上昇率をカバーする賃上げ」を実施しなければ、
*物価上昇による「労働力の再生産費用」の上昇に対し、企業が正当な対価を支払わない。
*資源価格高騰による企業のコスト増を、従業員の生活水準の切り下げによって吸収する。
ということになります。
 企業業績が極度に悪化し、一時帰休など雇用調整も実施されているような状況では、市場における購買力の維持の努力(賃上げ)はとりあえず他の企業にお願いし、そうした対応を行うことも許容されるかもしれません。しかしながら、自社が本当にそこまで従業員に負担を求めなくてはならない状況なのかどうか、企業労使で適切に判断していくことが重要です。
 労使は、20世紀を代表する経済学者ミルトン・フリードマンの言葉、
「労働組合にはインフレを発生させることはできない。労働の生産性を上回る賃金の上昇はインフレの結果ではあるが、その原因ではない」
を改めて噛み締めていく必要があります。

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