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(浅井茂利著作集)本質は変わっていない経団連「経労委報告」

株式会社労働開発研究会『労働と経済』
NO.1587(2015年2月25日)掲載
金属労協政策企画局次長 浅井茂利

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 2015年1月、春闘に対する経営側の方針として、経団連は「経営労働政策委員会報告」を発表しました。経団連は政府の「経済の好循環実現に向けた政労使会議」において、「賃金の引上げに向けた最大限の努力を図る」ことを約束したはずですが、ベアではなく賞与、物価が下がったら賃下げ、という従来の姿勢は変わっていないようです。

消えた賃金の国際比較と労働分配率

 経労委報告では従来、わが国の賃金水準は世界のトップレベル、などと主張していましたが、2015年版では一切触れられていません。
 日本の時間あたり人件費が先進国の中で最低水準であり、韓国やシンガポールなど新興国との差もわずかであることは、いまや明白となっています。
労働分配率についても同様で、これまでは、労働分配率は上昇している、国際的に見ても高い水準、といった主張をしてきましたが、今回は記載がありません。
 内閣府の「平成26年版経済財政白書」でも、労働分配率の低下が指摘されているので、触れることができないのも当然です。

生産性とベースアップ

 経労委報告では、労働生産性と付加価値の安定的な向上なくして月例賃金の引き上げは難しい、と述べていますが、実際には、わが国の人件費は、付加価値生産性や物的生産性に見合ったものとなっていません。わが国のものづくり産業が国際競争を生き抜いていくためには、生産性三原則(①雇用の維持拡大、②労使の協力と協議、③成果の公正な分配)に基づく「人への投資」と付加価値の適正な配分が不可欠なのではないでしょうか。

一時金引き上げも賃上げなのか

 経労委報告では、賃金とは賞与などを含めた多様なものであり、したがって「賃金の引き上げ=ベースアップ」といった単純なものではなく、ベースアップは賃金を引き上げる場合の選択肢のひとつである、と主張しています。
 一時金引き上げも賃上げであり、ベースアップは賃上げの選択肢のひとつ、とする経営側の姿勢は、デフレ時代と変わらないものです。昨年末、経団連は「経済の好循環実現に向けた政労使会議」において、「賃金の引上げに向けた最大限の努力を図る」ことを約束したはずですが、いったいどうなっているのでしょうか。
 ともあれ、生産性向上の取り組みは一時的・短期的なものではなく、恒常的・永続的なものであり、恒常的・永続的な賃上げによって、 「人への投資」と付加価値の適正な配分を行うべきでしょう。
 経済の好循環を実現するためには、企業収益の向上を勤労者への配分に結びつけるだけでなく、勤労者への配分を個人消費の拡大につなげていかなくてはなりません。消費水準の決定要因は、生涯にわたる所得の見通し、および所得に占める安定的な所得の割合なので、一時金の引き上げよりも、安定的な所得を増加させるベースアップのほうが、消費を拡大させる効果は大きくなります。
 仮に、一時金の引き上げを「賃上げ」とするならば、一時金の引き下げは「賃下げ」になってしまうので、そうした場合には、一時金の引き下げは、かなりハードルが高くならざるをえません。

賃上げの要求根拠

 経労委報告では、連合の2%の要求基準に対し、要求根拠が抽象的で具体性に欠ける、経済全体の成長が十分でなく、企業間の格差が生じているなか、実態にそぐわない、などと批判しています。
 かつては賃上げ根拠として、
労働組合:逆生産性基準原理(ベア率 = 就業者1人あたり実質GDP成長率 + 消費者物価上昇率)
旧日経連:生産性基準原理(ベア率 = 就業者1人あたり実質GDP成長率)
をそれぞれ掲げ、マクロ経済の観点からの適正な勤労者への成果配分のあり方について、論争を繰り広げてきました。
 2015年闘争の要求基準は、こうしたフォーミュラ(公式)に数値を直接あてはめたものではありませんが、生産性の変化(就業者1人あたり実質GDP成長率)や、物価の動向(消費者物価上昇率)を総合的に判断したものであり、決して「抽象的な」要求根拠ではありません。
 経営者団体が、労働組合の要求を「実態にそぐわないベア要求」として批判するならば、「どのような場合に、どれだけベースアップを行うのか」について、明確な考え方を示した上で批判すべきです。
 企業の業績格差を強調するのは経営側の常ですが、「平成25年版経済財政白書」では、日本の企業間の収益性の格差は小さい、ということです。欧米では、日本よりも収益格差が大きいにも関わらず、賃金決定は産別労使交渉や、産別と個別企業との交渉で決定しています。日本でも、連合や金属労協の方針に基づき、産別組織が要求基準を決定し、産別で統一的な闘争を展開しています。こうしたシステムは、経営側に比べ勤労者の交渉上の立場が弱いため、統一的な取り組みによって勤労者の立場を補強し、労使対等の下で交渉を行うことができるようにするとともに、企業の個別の事情を乗り越え「同一価値労働同一賃金」の実現を図るために不可欠な仕組みです。経営者団体には、こうした重みを十分に認識し、短絡的に「企業間の格差」を主張することのないようにしていただきたいところです。

中小では支払い能力の概念が異なる

 経労委報告では、連合の要求基準について、中小企業の現状を踏まえたものになっていない、大企業と同等の支払能力を持つ中小企業は極めて限られる、などと批判しています。
 しかしながら、所得に占める消費支出の割合は、所得が低い場合に高くなりますから、物価上昇の生活への影響は低賃金のほうがより大きく、中小企業で大手を上回る賃上げを行うことには、合理的な理由があります。
 また人手不足の中で、賃金・労働条件が相対的に低い中小企業では、人材確保の観点から、その格差是正を積極的に進めることが不可欠です。中小企業では、ROE(自己資本利益率)やROA(総資産利益率)の観点からの人件費の抑制圧力が比較的弱いため、「支払い能力」の概念も、大企業とは違っていて当然です。

社会保障負担と賃上げ

 経労委報告では、賃上げをしても社会保険料の負担増が大きく、手取り賃金はあまり増えない、と指摘しています。
 2003年度から2013年度までの10年間に、雇い主の社会保険料負担は4.9兆円増加しています。しかしながら一方で、従業員に支払う賃金は7.2兆円、退職金や企業年金の負担は2.2兆円、それぞれ減少しており、日本全体の総額人件費負担は、結局4.5兆円減少しています。かたや勤労者のほうは、6.0兆円の社会保険料負担の増加に加え、賃金は7.2兆円減少しているため、賃金から社会保険料負担を除いた手取りは13.2兆円も減少しています。負担が勤労者に片寄っているのは明らかであり、企業は、賃上げによって勤労者の負担増に対し配慮すべきではないでしょうか。
 時間あたりの法定福利費を直近の為替レート(1ドル=116円など)で国際比較すると、日本を100として、フランス263.3、イタリア218.4、ドイツ214.7、アメリカ193.4、韓国103.5などとなっています。
 社会保障制度の適正化は不可欠ですが、企業負担の重さについては適切に認識する必要があります。

消費税率引き上げと賃上げ

 経労委報告では、消費税率の引き上げは、社会保障制度を維持していくための施策であり、その受益者は全国民であることから、企業が増税分のすべてを負担することは適当でない、物価動向を勘案する場合は、消費税率引き上げの影響を差し引いた数値をベースにすべきである、と主張しています。
 しかしながら、消費税率引き上げによる増収のほとんどは、社会保障財源の付け替えに使われます。消費税率引き上げの受益者は、「全国民」というよりは、企業を含めた「納税者」「社会保険料負担者」です。消費税率引き上げによって、企業も他の税や社会保険料の負担増が抑制されるという点に留意する必要があります。

物価と賃上げ

 経労委報告では、月例賃金と物価の動向をリンクさせた場合、デフレ時には物価の下落分だけ月例賃金を引き下げる必要がある、と主張しています。
物価が下落した時は賃下げせよ、という主張は、まさに、経営者団体がデフレ時代の発想から抜け出せていないことを如実に示しています。管理通貨制度および変動相場制の下では、中央銀行がデフレ政策を採らない限り、物価の下落があった場合でも、それは例外的・一時的なものに止まるはずです。
ごく最近では、原油価格の下落が消費者物価上昇率の鈍化を招いていますが、石油関連製品の価格下落によって家計や企業の購買力が拡大しますので、時間が経過するにつれて需要全体が増加し、原油価格下落の物価に与える影響も緩和されることになるものと思われます。
 また経労委報告では、足元の実質賃金のマイナスを過度に重視しすぎないように、とも主張しています。
 しかしながら、日本経済の再興を果たそうとする中で、実質賃金のマイナスを放置することはできません。「失われた20年」と言われる長期にわたるデフレ、リーマン・ショックや東日本大震災をはじめとする相次ぐ災害、1ドル=70円台という超円高、こうしたさまざまな苦難の中で、勤労者は時として実質賃金のマイナスをも甘受しつつ、産業・企業の生き残りに向け、日々、懸命な努力を重ねてきました。デフレ脱却を確実なものとし、経済の好循環を実現しようとしている今この時においても、なお実質賃金の重みを踏みにじる経営者団体の姿勢には、強いいきどおりを感じざるを得ません。
 また、デフレ下でも毎年2%程度の月例賃金の引き上げを行い、長年にわたって物価変動を上回ってきた、とも主張していますが、2%とは定昇や賃金カーブ維持のことです。コメントする必要もないことですが、物価上昇局面では、定昇や賃金カーブ維持が行われていても、ベースアップが実施されなければ、生活水準が切り下げられることになります。定昇や賃金カーブ維持とベースアップとを混同すべきではありません。

定昇と財源

 定期昇給に関して、経労委報告では、原資の内転論は成立しない、と主張しています。定昇の原資は、労務構成によって企業の持ち出しとなる場合もあるし、企業が原資を回収する場合もあります。
 持ち出しとなっている時にベースアップを抑制するなら、回収する時にはベースアップを上積みする必要がありますが、そうした対応は現実的ではないでしょう。

非正規労働者

 非正規労働者については、経労委報告は「労使は、正規・非正規間において、処遇の均衡を図ることの重要性について、改めて認識する必要がある」と指摘しています。
 労働組合のメンバーでない非正規労働者の賃金・労働条件については、法律上は可能であるとしても、労使交渉・協議がやりづらかったことは否定できません。
 しかしながら今回、経団連は非正規労働者の賃金・労働条件の問題を労働組合と経営側で認識すべきである、と主張しています。これを受けて、非正規労働者・非組合員の賃金・労働条件改善について、個別企業の経営側が積極的な姿勢で労働組合との交渉・協議に対応することが望まれるところです。

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