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賃上げの価格転嫁について

2024年2月21日
一般社団法人成果配分調査会代表理事 浅井茂利

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 2024年春闘の大きなポイントが、ベースアップなどによる人件費上昇の価格転嫁の成否です。これが広く受け入れられるようになれば、サプライチェーンの川上に位置する中小企業におけるベースアップ実施が加速することが期待されます。政府は「労務費の適切な転嫁のための価格交渉に関する指針」を発表していますが、「指針」に基づき、発注者と受注者との間で適切な価格交渉が実施されることが望まれます。

賃上げとその価格転嫁の考え方の整理

 「2024年春闘想定問答集(3)物価」でも触れていますが、物価上昇をカバーするベースアップとその商品・サービス価格への転嫁の考え方を整理すると、以下のようになります。
労働市場:
物価上昇という労働力の再生産費用の上昇を、ベースアップによって労働力の価格である賃金に適正に転嫁する
商品・サービス市場:
資源・エネルギー価格の上昇などと同様に、ベースアップなど人件費の上昇を商品・サービス価格に適正に転嫁する

政府が「労務費の適切な転嫁のための価格交渉に関する指針」を発表

 人件費の上昇を、商品・サービス価格になかなか転嫁できないという状況があるため、政府(内閣官房、公正取引委員会)は、2023年11月29日に「労務費の適切な転嫁のための価格交渉に関する指針」を発表しました。
 まず発注者に求められる行動としては6つ、すなわち、
【行動①:本社(経営トップ)の関与】
①労務費の上昇分について取引価格への転嫁を受け入れる取組方針を具体的に経営トップまで上げて決定すること。
②経営トップが同方針又はその要旨などを書面等の形に残る方法で社内外に示すこと。
③その後の取組状況を定期的に経営トップに報告し、必要に応じ、経営トップが更なる対応方針を示すこと。
【行動②:発注者側からの定期的な協議の実施】
 受注者から労務費の上昇分に係る取引価格の引上げを求められていなくても、業界の慣行に応じて1年に1回や半年に1回など定期的に労務費の転嫁について発注者から協議の場を設けること。特に長年価格が据え置かれてきた取引や、スポット取引と称して長年同じ価格で更新されているような取引においては転嫁について協議が必要であることに留意が必要。
【行動③:説明・資料を求める場合は公表資料とすること】
 労務費上昇の理由の説明や根拠資料の提出を受注者に求める場合は、公表資料(最低賃金の上昇率、春季労使交渉の妥結額やその上昇率など)に基づくものとし、受注者が公表資料を用いて提示して希望する価格については、これを合理的な根拠があるものとして尊重し、これを満額受け入れない場合には、その根拠や合理的な理由を説明すること。追加の説明や資料を求める場合であっても、受注者の過度な負担とならないよう配慮すること。
【行動④:サプライチェーン全体での適切な価格転嫁を行うこと】
 労務費をはじめとする価格転嫁に係る交渉においては、サプライチェーン全体での適切な価格転嫁による適正な価格設定を行うため、直接の取引先である受注者がその先の取引先との 取引価格を適正化すべき立場にいることを常に意識して、そのことを受注者からの要請額の妥当性の判断に反映させること。
【行動⑤:要請があれば協議のテーブルにつくこと】
 受注者から労務費の上昇を理由に取引価格の引上げを求められた場合には、協議のテーブルにつくこと。労務費の転嫁を求められたことを理由として、取引を停止するなど不利益な取扱いをしないこと。持続的な賃上げの実現の観点から、受注者が過去に引き上げた賃金分の転嫁だけでなく、今後賃金を引き上げるために必要な分の転嫁についても同様に、協議のテーブルにつく。
【行動⑥:必要に応じ考え方を提案すること】
 受注者からの申入れの巧拙にかかわらず、受注者と協議し、必要に応じて算定方法の例をアドバイスするなど受注者に寄り添った対応をすること。

 そして、受注者として採るべき行動としては4つ、
【行動①:相談窓口の活用】
 労務費上昇分の価格転嫁の交渉の仕方について、国・地方公共団体の相談窓口、中小企業の支援機関(全国の商工会議所・商工会等)の相談窓口などに相談するなどして積極的に情報を収集して交渉に臨むこと。
【行動②:根拠とする資料】
 発注者との価格交渉において使用する労務費の上昇傾向を示す根拠資料としては、最低賃金の上昇率、春季労使交渉の妥結額やその上昇率などの公表資料を用いること。
【行動③:値上げ要請のタイミング】
 労務費上昇分の価格転嫁の交渉は、業界の慣行に応じて1年に1回や半年に1回などの定期的に行われる発注者との価格交渉のタイミング、業界の定期的な価格交渉の時期など受注者が価格交渉を申し出やすいタイミング、発注者の業務の繁忙期など受注者の交渉力が比較的優位なタイミングなどの機会を活用して行うこと。
【行動④:発注者から価格を提示されるのを待たずに自ら希望する額を提示】
 発注者から価格を提示されるのを待たずに受注者側からも希望する価格を発注者に提示すること。発注者に提示する価格の設定においては、自社の労務費だけでなく、自社の発注先やその先の取引先における労務費も考慮すること。

発注者・受注者の双方が採るべき行動としては2つ
【行動①:定期的なコミュニケーション】
 定期的にコミュニケーションをとること。
【行動②:交渉記録の作成、発注者と受注者の双方での保管】
 価格交渉の記録を作成し、発注者と受注者と双方で保管すること。
 
 また「労務費上昇の理由の説明や根拠資料」としての公表資料については、
*都道府県別の最低賃金やその上昇率
*春季労使交渉の妥結額やその上昇率
*国土交通省が公表している公共工事設計労務単価における関連職種の単価やその上昇率
*一般貨物自動車運送事業に係る標準的な運賃
*厚生労働省が公表している毎月勤労統計調査に掲載されている賃金指数、給与額やその上昇率
*総務省が公表している消費者物価指数
*ハローワーク(公共職業安定所)の求人票や求人情報誌に掲載されている同業他社の賃金
などが例示されています。

 なお、以下の場合については、独占禁止法上の優越的地位の濫用又は下請代金法上の買いたたきとして問題となるおそれがある、との注意喚起がされています。
*協議することなく長年価格を据え置くことや、スポット取引とはいえないにもかかわらずスポッ ト取引であることを理由に協議することなく価格を据え置くこと。
*労務費上昇の理由の説明や根拠資料について、公表資料に基づくものが提出されているにもかかわらず、これに加えて詳細なものや受注者のコスト構造に関わる内部情報まで求め、これらが示されないことにより明示的に協議することなく取引価格を据え置くこと。
*発注者が特定の算定式やフォーマットを示し、それ以外の算定式やフォーマットに基づく労務費の転嫁を受け入れないことにより、明示的に協議することなく一方的に通常の価格より著しい低い単価を定めること。

「ビジネスの常識に反する」との主張に対して

 人件費上昇の商品・サービス価格への転嫁に対しては、
*ビジネスの常識に反する
*労務費の上昇分は外部要因ではなく、受注者の生産性や効率性の向上を図ることで吸収すべき
との主張が見られるようです。
 もし、「労務費の上昇分は外部要因ではなく、受注者の生産性や効率性の向上を図ることで吸収すべき」という「ビジネスの常識」があるのだとしたら、それはあくまでデフレ時代の常識である、と言わざるを得ません。物価が上昇しておらず、成長もほとんど見られず、ベースアップの世間相場が「ベアゼロ」であれば、ベースアップを行う企業は自社で吸収してください、という主張は、あながちおかしいわけではありません。しかしながら、デフレ時代が終焉し、継続的な物価上昇と継続的なベースアップの時代となっているわけですから、「ビジネスの常識」も当然変えていかねばなりません。

 まず「2024年春闘想定問答集(1)支払い能力」で詳細に説明しているように、適正な成果配分のあり方は、
実質生産性の向上に見合った実質賃金の引き上げ
というものです。「経済整合性論」「逆生産性基準原理」に従えば、人件費上昇をもたらすベースアップは、次の部分から構成されます。
①マクロの実質生産性の向上に見合った実質賃金の引き上げ=生活向上分としてのベースアップ
②物価上昇をカバーする、生活を維持するためのベースアップ

そして、賃金水準が他産業を含めた世間相場や同業他社に比べて低い場合には、
③賃金格差是正のためのベースアップ
も必要となります。

 このうち①の部分については、「マクロの実質生産性の向上」と同程度の実質生産性の向上は、受注者個社においても達成して欲しい、という要望が発注者側にあったとしても、これは不自然なことではありません。

 しかしながら②の部分、すなわち物価上昇をカバーする部分については、
*ベースアップのうち、物価上昇をカバーする部分については「外部要因」である
*物価が上昇しているということは、「川下」に対し価格引き上げという負担を求めていることになる。それなのに「川上」である受注者に対しても「吸収」という負担を求めるのは、大変おかしい
*仮に「川上」の受注者に「吸収」という負担を求めることによって、「川下」には価格引き上げという負担を求めない、というのであれば、適切な物価上昇による経済の好循環のサイクルを断ち切ってしまうことになる
 従って、どちらも不適切ということになります。物価上昇をカバーするベースアップに伴う人件費上昇については、商品・サービス価格に適切に転嫁されなくてはなりません。

 ③の賃金格差是正の部分についても、
*現行の賃金水準が他産業を含めた世間相場や同業他社に比べて低く、
*その原因が経営者の強欲ではなくて、
*適切な価格設定がなされていないためである
とすれば、賃金格差是正を行うことによる人件費の上昇も、当然、価格転嫁の対象としていかなくてはなりません。

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