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(浅井茂利著作集)春闘の転換点を振り返る

株式会社労働開発研究会『労働と経済』
NO.1581(2014年8月25日)掲載
金属労協政策企画局次長 浅井茂利

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 まもなく来春闘の議論が始まりますが、2014年闘争が、労働組合全体として賃上げに取り組んだ、転換点の闘争であったことは誰しも認めるところでしょう。しかしながら、本当に2014年闘争が転換点になるのかどうかは当然ですが2015年以降の闘争にかかっています。
 くしくも来年2015年は、春闘が還暦を迎えます。これまでの春闘の転換点となった折々を振り返ることが、今後の春闘のあり方を考える上で何らかの手がかりとなるかもしれません。

春闘のはじまりと意義

 春闘は1955年に行われた合化労連、炭労、私鉄総連、紙パ労連、国労、全国金属、化学同盟、電機労連の八単産共闘がそのはじまりです。
 賃金・労働条件は本来、社会性を持っています。「同一価値の労働に対する同一報酬の原則」は、ILO(国際労働機関)憲章の前文において、明確に打ち出されています。市場経済の原理から考えても、「同一価値労働同一報酬の原則」が当然なのは明らかでしょう。
 これを抽象的なお題目に止まらせるのではなく、具体的な姿にするためには、まず「同一価値労働」を判断しやすい産業別に賃金決定をしていく、すなわち産業別協約を基本とする必要があります。
 日本は企業別労働協約ですが、企業ごとにばらばらに決定していては、企業業績や経営者の個性など企業の個別事情の影響を過度に受けやすいことになってしまいます。そこで、「闇夜の道を弱い者同士がお手てをつないで進んでいくしかない」(太田薫・合化労連委員長)として編み出されたのが春闘方式です。
 春闘方式は、日本が高度成長の真只中にあったこともあり、大成功を収めることになります。逆に、春闘方式という成果配分方式が確立されたことが、日本経済を持続的な高度成長に導いたということもできるでしょう。

経済整合性論

 しかしながら、73年秋に勃発した第4次中東戦争、それによって引き起こされた第1次石油危機、それをきっかけとしたわが国の狂乱物価が、春闘に転換を迫ることになります。
 第1次石油危機前の春闘は、前年要求や前年実績を土台として、上積みを図っていく状況が続いていました。賃上げ率は65年、66年は10.6%でしたが、67年は12.5%、68年は13.6%、69年は15.8%、70年は18.5%と4年連続で前年を上回りました。(労働省の民間主要企業を対象とした調査・定昇込み)
 71、72年には、若干低下しましたが、第4次中東戦争直前の73年春闘では、20.1%に上昇しました。狂乱物価を反映した74年春闘は32.9%という大幅賃上げ率を獲得することとなりましたが、74年8月、IMF-JC議長であった宮田義二・鉄鋼労連委員長は、対前年度の要求、あるいは対前年度の獲得実績プラスアルファというパターンは通用しにくい情勢となったとの認識に立って、いかに実質的に、しかも経済成長に見合って、計画的に賃上げを考えていくかが重要なポイントである、という「経済整合性論」を打ち出し、こうした考え方を背景に、政府に対し強く物価抑制を迫りました。こうした取り組みもあって、日本経済は主要国の中で、いち早く第1次石油危機の影響を脱し、ドイツと共に世界経済の機関車役を務めることになります。

第1次石油危機とリーマンショック

 第1次石油危機の際の狂乱物価については、原油価格の高騰が原因と考えている人が多いのですが、狂乱物価の主因は、実は中東戦争勃発前に行われていた大幅な金融緩和です。マネタリーべース(家計・金融機関・企業が保有する現金の総額と、金融機関が日銀に預けている当座預金の総額)の増加率は、戦争直前の73年9月には前年比41.3%に達していました。台風が来る前に窓を開け放していた状態であったと言えます。マッチをこすって火をつけても、何もなければ軸が燃え尽きて終わりですが、そばにガソリンがあれば爆発してしまうわけです。
 これとちょうど逆のことが、実はリーマンショックの時に起こりました。リーマンショックの際には、その直前まで、原油価格が大幅に高騰していました。金融危機が発生した場合には、大規模な金融緩和が定石ですが、原油価格が高騰していれば大インフレが発生してしまうので、金融緩和を行うことができません。
 もし、原油価格高騰のままリーマンショックに突入していたら、世界経済は未曽有どころか、想像を絶する事態になっていたでしょう。
 しかしながら、リーマンショック直前の2008年6月に、サウジアラビア、クウェートが増産を決定し、原油価格は沈静化に向かっていたので、各国は躊躇なく大規模金融緩和に踏み切ることができたのです。ただし、日本については、この時の金融緩和が小規模だったので、本来は影響が軽微だったはずなのに、結局、先進国で最も大きな打撃を受けることになりました。

逆生産性基準原理の提唱

 話を本題に戻しますが、日本経済は、79年に起こった第2次石油危機も比較的軽微に乗り切ることができました。しかしながら80年代に入ると、労働分配率の低下傾向が顕著となり、経済の輸出主導・外需依存体質が強まりました。こうした状況の中で、当時のナショナルセンターのひとつ「同盟」系のシンクタンク、経済・社会政策研究会が打ち出したのが、「逆生産性基準原理」です。少し奇妙な名前ですが、旧・日経連の「生産性基準原理」に対抗する原理という趣旨です。
 逆生産性基準原理は、
ベア率 = 就業者1人あたり実質GDP成長率 + 消費者物価上昇率
というものですが、GDP統計ベースの労働分配率を、
労働分配率=雇用者1人あたり名目雇用者報酬÷就業者1人あたり名目GDP
とすると、労働分配率の分子である「雇用者1人あたり名目雇用者報酬」の増加率を「ベア率」の近似値、分母である「就業者1人あたり名目GDP」の成長率を「就業者1人あたり実質GDP成長率十消費者物価上昇率」の近似値と考えると、賃金決定に際して「逆生産性基準原理」を採用すれば、労働分配率の分子と分母が同率で増加するので、労働分配率は一定になる、ということになります。
 これに対して、旧・日経連の「生産性基準原理」は、
ベア率 = 就業者1人あたり実質GDP成長率
というものなので、物価上昇局面では、物価上昇分だけ労働分配率が低下します。
 逆にデフレ局面では、例えば実質GDP成長率が同じ2つの年があった場合、物価下落率が大きいほどベア率が大きくなるという、奇妙なことになります。逆生産性基準原理と生産性基準原理、どちらが妥当であるかは一目瞭然です。

プラザ合意と1,800時間への時短

 1980年代前半には、アメリカの貿易赤字、とりわけ対日貿易赤字が大幅に拡大しました。アメリカはその原因が日米製造業の人件費格差にあると判断し、為替レートを円高に誘導することによって、日本の人件費をドル建てで引き上げ、人件費格差の縮小を図りました。これがプラザ合意です。
 日本ではこれに対し、国民生活の質の向上を図ることによって、内需主導の国際協調型経済への転換を図ろうとしました。86年の前川リポート、87年の新前川リポートが、政府の考え方をとりまとめたもので、とくに欧米先進国なみの労働時間の実現が大きな柱となりました。
 ちなみに前川リポートでは、「経済成長の成果を賃金にも適切に配分する」ことが、時短よりも前に打ち出されていましたが、鈴木永二氏(87年より日経連会長)が検討に加わった新前川リポートでは、残念ながら賃金については、事実上、顧みられないことになってしまいました。
 年間総実労働時間1,800時間程度の実現は、国民的合意・国際公約となり、金属労協でも「時短5カ年計画」を策定するなど、強力な取り組みを展開、大手組合では、年間所定労働時間が1,900時間を切るような水準まで時短が進みました。

失われた20年と円高

 日本は、国民生活の質の向上による内需拡大でプラザ合意後の円高不況を乗り切ろうとしましたが、実際には、大幅な金融緩和が大きな役割を果たしました。
 第1次石油危機の時と異なり、大幅金融緩和でも物価はさほど上昇しませんでしたが、その代わりに地価、株価などの資産価格が暴騰し、バブル経済を招きました。狂乱物価とバブル経済の二度の失敗を経験した日銀は、以後、金融緩和に消極的な態度をとり続けることになります。
 91年にはバブルが崩壊しましたが、97年には山一證券、三洋証券など大手金融機関が破綻し、金融危機が深刻化しました。その後99年、2000年には再び円高が進行し、ものづくり産業は打撃を受けることになりました。
 このため2001年の金属労協の闘争方針では、実質賃金維持の指標として過年度消費者物価上昇率、成長成果の公正分配の指標として就業者1人あたり実質GDP成長率をとり、マクロ成長に連動して賃金決定を行うことは困難になった、との認識の下に、「産業・企業実態をまず重視」して、賃金決定を行っていくことにしました。

戦後最長の景気回復と格差是正

 2001年の同時多発テロ以降、量的金融緩和が強化されたことから、景気は回復に向かい、結局2002年1月から2008年2月まで、6年1カ月におよぶ戦後最長の景気回復となりました。しかしながら、勤労者への配分が不十分であったことから、「実感なき景気回復」に止まったことは、記憶に新しいところです。
 2005年の春闘で金属労協は、「産業間・産業内の賃金格差の実態や、業績回復に対する組合員の貢献を踏まえ、積極的に格差是正に取り組」むとの闘争方針を策定し、大手組合のほとんどがベア要求を見送る中にあっても、産別指導の下で単組が積極的にベアなどによって賃金格差是正に取り組んでいくことにしました。
 格差是正の流れは広がりを見せ、2013年闘争では、この年も大手組合の多くで賃上げ要求が行われませんでしたが、金属労協3,281組合中、386組合が賃上げを獲得しました。
 2014年闘争を迎えるまでに、春闘はこのような経過を辿ってきたわけですが、2014年を転換点とするためには、2015年闘争以降、
*2014年闘争で賃上げ要求のできなかった組合、賃上げ回答を得られなかった組合が、賃上げを要求し、回答を引き出すことができるかどうか。
*とりわけ、グローバル経済の下、人件費の低い中国やアジアの新興国と熾烈な国際競争を繰り広げている中で、賃上げなどできるはずがない、というこれまでの固定観念を打破できるか。
*「失われた20年」を脱して、わが国の成長軌道を確かなものとするために、「現場力強化」の観点に立った「人への投資」が実現できるか。
*持続的な経済成長が果たされる中で、成長成果を現場で働く者に適正に配分できるか。
*「人への投資」と適正配分によって、経済の好循環を確立できるか。
*消費者物価上昇率のプラスが定着する中で、実質賃金をどう維持していくか。
*非正規労働者、未組織労働者の賃金・労働条件向上をいかに実現していくか。
が焦点になっていくものと思われます。

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