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(浅井茂利著作集)格差を固定化させる政策

株式会社労働開発研究会『労働と経済』
NO.1608(2016年11月25日)掲載
金属労協政策企画局長 浅井茂利

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 2015年7月25日号の本欄において、
*ILOの「フィラデルフィア宣言」では、「一部の貧困は、全体の繁栄にとって危険である」と謳われているが、「全体の繁栄にとって危険」だから貧困がよくないのではない。「貧困は重大なほとんど純然たる害悪である」(アルフレッド・マーシャル『経済学原理』)。
*また同宣言では、「労働は、商品ではない」とも書かれているが、労働力が商品(コモディティー)ほど大事にされていない場合も少なくない。
*格差の問題が注目を集めているが、根本的には、頑張った人が報われる社会か、裕福な家庭の子孫が裕福であり続ける社会か、ということに行きつく。
*日本では、階層が流動的な社会が望ましいというコンセンサスがあるものと思っていたが、最近はそうも言い切れない。
といったことを指摘しました。
 スタンフォード大学のジョン・マクミランは2002年に発表した『市場を創る』という著書の中で、「貧困を嫌悪している政治的に極左の人々は、貧困を固定化する政策を支持している。市場を尊重する自由放任主義の熱狂的な支持者たちは、市場の崩壊を引き起こすシステムを提唱している」と主張しています。自由放任主義の熱狂的な支持者が市場の崩壊を引き起こすシステムを提唱している事例については、前々号などで取り上げた特定最低賃金廃止の主張をはじめ、さまざまな事例をただちに思いつくことができます。今回は、前者の事例、すなわち貧困を嫌悪している人々が支持している、貧困を固定化する政策、格差を固定化し、階層社会、階級社会への道を開く政策について、考えてみたいと思います。

日本の所得再分配はうまくいっているか

 まずは、税や社会保障による再分配がうまくいっているかどうかについて、見てみようと思います。
 一橋大学経済研究所の小塩隆士教授は、OECDのデータを使い、2009年における当初所得と再分配後の所得のジニ係数の国際比較を行っています。ジニ係数とは、格差の度合いを示す指標で、構成員の全員が同じ所得であれば0、ただ1人が所得を独占していれば1になります。
 再分配前の当初所得では、日本の格差の大きさは、比較対象の33カ国中12番目ですが、再分配後の所得では8番目となってしまいます。ジニ係数が再分配によってどれだけ改善したかという、改善度(再分配前と後のジニ係数の差÷当初所得のジニ係数)を計算してみると、日本は33カ国中12番目に改善度が低いということになります。先進国の中で、日本は格差が大きく、かつ再分配もうまくいっていないように見受けられます。
 厚生労働省では、おおむね3年に1度、「所得再分配調査報告書」を作成し、世帯単位のジニ係数などをとりまとめています。最新のデータは2014年のものですが、全体では、当初所得のジニ係数が0.5704なのに対し、再分配所得は0.3759で、改善度は34.1%となっています。
 このうち高齢者世帯では、当初所得が0.7981、再分配所得が0.3813で、52.2%と大幅な改善度なのに対し、一般世帯(総数から高齢者世帯と母子世帯を除いた世帯。公式の名称は「その他の世帯」)では、当初所得0.4399、再分配所得は0.3473で、改善度は21.0%に止まっています。ところで、高齢者世帯の定義は、65歳以上の者のみの世帯か、65歳以上の者と18歳未満の者で構成されている世帯、ということなので、一般世帯にも高齢者は入っています。一般世帯の社会保障の給付額が140.4万円、このうち年金・恩給は77.7万円、介護は10.1万円となっていますので、医療を加えて大雑把な推計をすると、140.4万円のうち、8割くらいが高齢者に対する給付と考えてよいのではないかと思います。わが国では、所得再分配イコール高齢者に対する給付、と言ってもあながち過言ではないようです。

公的年金における賦課方式と報酬比例

 「年金」というと、若いときに積み立てて引退してから受け取るというイメージがありますが、周知のとおり、わが国の公的年金は、現役世代から徴収した保険料を、その時点の高齢世代に配布する賦課方式が基本です。一方、公的年金のうち基礎年金は定額ですが、厚生年金は報酬比例という仕組みになっています。
 保険料をたくさん支払った人がたくさん年金をもらうのは当然ではないか、と思われますが、私的年金や、積立方式の公的年金であれば当然でも、賦課方式の下では、一概に当然とは言えないように思います。
 後述しますが、社会保障の大原則は、やはり能力に応じて負担し、必要に応じて給付を受けるということだと思います。
 現役時代に保険料をたくさん支払った人は、それなりの資産を保有していたり、高齢になっても収入のある比率が高くなるでしょうから、「必要に応じて給付を受ける」場合の「必要」の度合いは、保険料の支払いが少なかった人に比べて、小さいと言えます。賦課方式の下での報酬比例の公的年金という仕組みは、合理的とは言えないのではないでしょうか。

大学授業料無償化は正しいのか

 アメリカ大統領選の予備選において大健闘したバーニー・サンダース上院議員の公約で最も注目されたのが、公立大学の授業料の無償化でした。これによって、サンダース候補は多くの若者の支持を掴んだようですが、一見、弱者のために見えるこうした政策も、本当にそうなのか、よくよく考えてみる必要があります。
 今日の経済政策の基本的な枠組みを構築したとも言えるシカゴ大学のミルトン・フリードマンは、公立の高等教育に対する政府の財政支出に関して、次のように批判しています。
*中産階級や上流階級出身の若者は、低所得者層出身の若者の2倍から3倍も大学に進学する可能性が高い。しかも前者の方が、より高価な教育機関において、より長い期間就学することだろう。その結果、より高い所得をもっている家庭出身の学生の方が、政府による助成金の利益をもっと多く手に入れることになる。
*フロリダの場合とカリフォルニアの場合とを詳細に調査したふたつの研究結果は、高等教育に対する政府の財政支出がどれほど低所得者層から高所得者グループへと、所得を逆移転させるものであるかを明らかにしている。
*中産階級や上流階級に所属する人々は貧困な人々をだまして大規模に自分たちの高等教育に対する助成金を出させるのに成功してきたのだ。それにもかかわらず中産階級や上流階級に所属している人々は、人間として感じなくてはならない恥を知ることはまったくなく、自分たちにはまったく利己心がなく、あるのは公共精神だけだと自慢しているのだ。
 日本では、2017年度予算の概算要求において、返済不要の給付型奨学金制度の創設が打ち出され、「対象者や財源等の課題を踏まえつつ、平成29年度予算編成過程を通じて制度内容について結論を得る」とされています。大学生を対象とする日本の公的奨学金制度は、日本学生支援機構のものが基本ですが、ここで支給される奨学金は、海外留学のための奨学金の一部を除き、すべて返済の必要な貸与型奨学金となっています。大学における学内奨学金・授業料等減免制度、あるいは地方自治体や奨学金事業実施団体などが行う奨学金制度では、給付型奨学金も少なくないものと思われますが、対象者や支給金額はごく限られてしまいます。新たに給付型奨学金制度を整備することは、大変重要なことだと思います。
 これに対して、サンダース氏と同様、授業料の無償化を主張する向きもあります。しかしながら、あらゆる政策を総動員したとしても、貧困層の大学進学率が富裕層の大学進学率よりも低いという状況を変えることはできないでしょう。そうであれば、大学の授業料無償化という施策は、やはり富裕層を優遇する制度、格差の固定化を助長する制度ということが言えると思います。親の所得に応じて差をつけることのできる給付型奨学金制度のほうが、優れているのではないでしょうか。
 一方、ミルトン・フリードマンは、「返済金額変動学資貸付制度」を提案しています。奨学金を受けた人が、卒業後に、ある一定額を超える収入を得ている場合、その超えた分の一定割合を毎年、所得税とともに支払うという制度です。奨学金を得て大学で学んだ人が、卒業後は大成功して富裕層になるかもしれません。そうした場合には、卒業後の収入に見合って、返済してもらうということですし、もし残念ながら、大学教育の効果が発揮されず、一定水準の収入を得ることができなければ、返済は不要という、合理性のある制度のように見受けられます。

社会保障の選別主義と普遍主義

 先述のように、かつて社会保障の基本は、能力に応じて負担し、必要に応じて給付を受ける、ということでした。給付の必要な者しか受け取れないということで、「選別主義」と言われます。これに対して、給付を必要としなくとも、誰でも受け取れるようにする「普遍主義」が広まってきました。公的年金はその代表例ですし、最近、スイスにおいて導入の可否が国民投票となった「べーシック・インカム」、すなわち、政府が富裕層も含めすべての国民に対し、最低限の生活を送るのに必要とされている額の現金を無条件で定期的に支給するという仕組みなどは、その究極の姿と言えるでしょう。
 普遍主義を導入する理由としては、
①選別主義には、恥辱感が伴う。そのために給付を申請しない人も多い。
②給付を受ける人は、二流の市民だということになり、階層分化が生じる。
③給付資格が生じる境界線の付近で、賃金が増えると給付が減って手取りが増えない、といったことが生じる場合がある。
④一般の人の関心が集まらないので、サービスの質の低下を招きがちである。
などといったことが挙げられています。
 しかしながら、③については、単純に制度設計の問題ですし、④についても、社会的な関心を常に喚起し、監視していけばよい問題です。誰にでも給付されることによって、一般の人の関心が集まれば、際限なく無駄が広がる可能性もあります。
 ①と②については、それこそ富裕層の人々が、貧困層の人々に対して、「あなたたちだけもらうのは恥ずかしいでしょ。だから私たちも一緒にもらってあげる」と言っているように聞こえます。
 普遍主義の社会保障を実現するための財源に関しても、たとえば相続税の抜本的な強化というような主張は、あまり大きくないような気がします。社会保障財源としては、消費税増税が主張されることが多いですが、消費税が逆進的な性格を持っていることは、否定できません。
 また社会保険料に関しても、一定収入以上の人は定額という仕組みであれば、これも逆進性があると言えます。こうした財源を用いて普遍主義の給付を行うことは、格差の拡大、格差の固定化を促し、階層社会、階級社会を招くことになるのではないでしょうか。
 政府がお金を徴収し、それを国民に配分するというシステムは、いずれにしても無駄の発生を避けることができませんが、これを普遍主義で行えば無駄は累乗的に拡大していくことになるでしょう。
 無駄を可能な限り小さくするためには、「必要なところに必要なだけ」を徹底する以外にありません。
 おりしも、マイナンバー制度が導入され、消費税ではインボイスの導入も見込まれています。第4次産業革命の進展などもあり、正確に資産や所得を把握し、また「恥辱感」を伴わないで給付するシステムを構築することも可能になってくるのではないでしょうか。新しい時代に相応しい、「ヒューマンな選別主義」の構築に努めていくべきであると思います。

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