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なぜ春闘が必要なのか(3)

2022年10月6日
一般社団法人成果配分調査会代表理事 浅井茂利

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 「なぜ春闘が必要なのか」の1回目では、「日本経済の成長に相応しい賃上げ、日本の経済力に相応しい賃金水準」を実現すべきだと指摘していますが、3回目では、その具体的な考え方について、ご紹介したいと思います。
 「日本経済の成長に相応しい賃上げ」を実現するための考え方として、「逆生産性基準原理」というものがあります。実際には、「原理」を掲げたからといって、そのとおりに事が運ぶわけではありません。しかしながら、賃上げには根拠が必要です。政府もいまEBPM(証拠に基づく政策立案)を進めていますが、労働組合も「根拠に基づく要求」が不可欠です。逆生産性基準原理を賃上げ(ベースアップ)の根拠の柱として据えつつ、その時々の状況に応じて柔軟に対応し、「日本経済の成長に相応しい賃上げ」を中長期的に達成していくことが重要です。
 もちろん実際の個別企業ごとの賃上げ(ベースアップ)についても、逆生産性基準原理をそのまま当てはめるということではなく、逆生産性基準原理を基本として社会的な賃上げ相場を形成しつつ、産業の状況や個別企業の事情を一定程度反映して決定していく、ということが望まれます。

「日本経済の成長に相応しい賃上げ」とは何か

 1回目では、生産性を向上させるに際しての成果配分のあり方について、日本生産性本部の「生産性運動三原則(①雇用の維持拡大、②労使の協力と協議、③成果の公正な分配)」が政労使で確認されており、このうち、「成果の公正な分配」については、「生産性向上の諸成果は、経営者、労働者および消費者に、国民経済の実情に応じて公正に分配されるものとする」とされていることを紹介しました。
 「国民経済」とはマクロ経済のことですから、「生産性向上の諸成果」は、ミクロである企業の業績や体力、支払い能力に応じてではなく、「マクロ経済の実情」に応じて、公正に分配される必要がある、ということになります。
 マクロ経済の生産性の向上に見合った賃上げ(ベースアップ)の姿を具体的に表すと、
 雇用者1人あたり実質雇用者報酬増加率
                 = 就業者1人あたり実質GDP成長率   
ということになります。
 一気になじみのない感じになりましたが、むずかしくはないので、ていねいに解説したいと思います。また春闘では、「賃上げ額」や「賃金水準」で要求し、回答を引き出す組合が多いですが、ここでは便宜上、すべて「賃上げ率」として説明いたします。
 まず、「雇用者」とは雇われて働いている人と役員、「就業者」とは収入を伴う仕事を持っている人、のことを意味します。従って、
   就業者 = 雇用者 + 自営業主 + 家族従業者
となります。
 先ほどの式で、右辺の「就業者1人あたり実質GDP成長率」が、日本全体の物的生産性上昇率を意味します。生産性には、
*労働時間あたりの産出と1人あたりの産出
*物的(実質)生産性と付加価値(名目)生産性
とがありますが、賃上げ(ベースアップ)は、1人あたり賃金で交渉し、時給はそれを踏まえて引き上げられる場合が多いですから、ここでは1人あたりの産出を使うことにします。
 物的生産性は、たとえば年間に1人あたりいくつ作れたか、という指標であり、付加価値生産性は、1人あたりいくらの付加価値を産み出したか、という指標です。ちなみに付加価値は、(製造業以外の産業における)粗利に近い概念です。
 ただしGDP統計では、物的生産性は付加価値(名目)生産性を物価で割って、実質生産性として算出します。
    付加価値(名目)生産性  物価   物的(実質)生産性
ある年      100        100     100(100÷100)
翌 年      105           103     102(105÷103)
というわけです。
 一方、左辺の「雇用者報酬」は、総額人件費を意味します。月例賃金だけでなく、一時金、法定福利費(社会保障の企業負担)、福利厚生費、退職金なども含まれています。金額としては、人件費は賃金よりもかなり多くなるわけですが、「増加率」ということで見れば、賃金の増加率と人件費の増加率はそんなに違わないと見て差し支えないので、
 実質賃上げ(ベースアップ)率= 就業者1人あたり実質GDP成長率
と書き換えることができます。
 この式では、左辺、右辺とも、物価の上昇で目減りする分を除いた「実質」になっていますが、実際の春闘では、当然のことながら「名目」の賃上げ(ベースアップ)率で交渉を行いますので、左辺と右辺の両方を「名目」にしなくてはなりません。従って、
 実質賃上げ(ベースアップ)率+物価上昇率
        = 就業者1人あたりの実質GDP成長率+物価上昇率
 したがって、
 (名目)賃上げ(ベースアップ)率
         = 就業者1人あたり実質GDP成長率 + 物価上昇率

         = 就業者1人あたり名目GDP成長率
ということになります。右辺は、付加価値(名目)生産性の上昇率となります。
(なお厳密には、賃上げにおける物価上昇率とGDPにおける物価上昇率とは違うのですが、その違いは無視しています)

 これは、1984年に労働組合系のシンクタンク「経済・社会政策研究会」(佐々木孝男代表)が発表した「逆生産性基準原理」という考え方です。
 ずいぶん変な名前ですが、当時の経営者団体・日経連が、「生産性基準原理」という考え方を示していたので、それとは違うもの、という意味で名付けられました。名目の賃上げ(ベースアップ)率を付加価値(名目)生産性上昇率に合わせることになるので、「付加価値生産性基準原理」というのが適切なネーミングではないかと思います。
 40年近く前に提唱された古くさい考え方のように思われるかもしれませんが、2015年の厚生労働省 『労働経済白書』では、この逆生産性基準原理について、「標準的な経済理論が想定する世界と等しいもの」と評価しています。まさに「日本経済の成長に相応しい賃上げ」を実現するものとして、「生産性運動三原則」と同様、雇われて働くという形態が存在する限り、将来にわたって通用する永遠の原理だと思います。

逆生産性基準原理では、労働分配率が一定に保たれる

 逆生産性基準原理は、労働分配率との関係を見ることによって、その正しさが確認できると思います。
 わが国の労働分配率が長期的に低下傾向をたどってきたことは、政府も認めるところです。労働分配率とは、付加価値に占める従業員の取り分の割合ですから、その低下は、「日本経済の成長に相応しい賃上げ」ができてこなかったことを意味します。
 労働分配率には、色々な計算方法があります。まずマクロのGDP統計を使ったものと、ミクロの財務省「法人企業統計」を使ったものとがありますが、ここでは「マクロ経済の実情」に応じた配分のあり方について検討しているわけですから、GDP統計の労働分配率を使うことにします。
 GDP統計を用いた労働分配率にも色々あるのですが、代表的なもののひとつが、
  雇用者1人あたり名目雇用者報酬 ÷ 就業者1人あたり名目GDP
というものです。
 先ほどの逆生産性基準原理の数式
 (名目)賃上げ(ベースアップ)率
         = 就業者1人あたり実質GDP成長率 + 物価上昇率       
         = 就業者1人あたりの名目GDP成長率
と比べて見ると、逆生産性基準原理に則った賃上げ(ベースアップ)を行うと、労働分配率の分子(雇用者1人あたり名目雇用者報酬)の増加率と、分母(就業者1人あたり名目GDP)の成長率が等しくなることがわかります。逆生産性基準原理では労働分配率は一定、すなわち、産み出された付加価値に占める労働者の取り分の割合が変わらない、中立的な配分が実現することになり、「日本経済の成長に相応しい賃上げ」が実現するわけです。

実際の賃上げ(ベースアップ)は、柔軟に判断しなければならない

 しかしながら実際には、硬直的に、デジタルに事を進めるのではなく、逆生産性基準原理を賃上げ(ベースアップ)の根拠の柱として据えつつ、その時々の状況に応じて柔軟に対応していく必要があります。
 たとえば、逆生産性基準原理は、労働分配率を一定に保つ原理ですから、労働分配率が長期にわたって低下してきており、これを回復させる必要がある場合には、「就業者1人あたり実質GDP成長率+物価上昇率」よりも上積みした賃上げ(ベースアップ)が必要となります。
 また、コロナ禍のような異変で成長率が極度に落ち込んだような場合には、落ち込んだ成長率を反映した賃上げ(ベースアップ)ではなく、わが国の潜在的な成長率を踏まえた賃上げ(ベースアップ)ができれば、経済の底支えに寄与することになります。
 逆に、物価上昇率が高騰して、成長率+物価上昇率の賃上げ(ベースアップ)の獲得がむずかしい場合には、最低限、物価上昇率だけは獲得して実質賃金を維持する、ということも緊急避難的に考えられると思います。
 「日本経済の成長に相応しい賃上げ」は、単年度ごとに実現する課題というよりは、中長期的に達成していくことが重要です。
 また、繰り返し指摘しているように、実際の個別企業ごとの賃上げ(ベースアップ)については、逆生産性基準原理をそのまま当てはめるということではなく、逆生産性基準原理を基本として社会的な賃上げ相場を形成しつつ、産業の状況や個別企業の事情を一定程度反映して決定していく、ということが望まれます。

日本の経済力に相応しい賃金水準

 「日本の経済力に相応しい賃金水準」とはいったいどのくらいか、というのはなかなか判断が難しい問題です。しかしながら、
*わが国の製造業の時間あたり人件費を見ると、主要先進国の中で最低、先進国の中でも低位にある。
*同じく製造業の労働分配率を見ると、これも主要先進国の中で最低レベルとなっている。
という状況にありますので、わが国の賃金水準は、わが国の経済力に相応しいものとなってないと判断できるのではないかと思います。
 主要先進国で労働分配率が低いのは米国と日本ですが、
*米国は生産性が高く、人件費も高いものの、生産性の高さに追いついていない。
*日本は生産性が低いが、それ以上に人件費が低い。
という状況となっています。
 日本の賃金を上げるためには、まず生産性を上げるべき、という主張がありますが、こうした状況からすれば、人件費の低さこそ生産性の低さの原因で、「低賃金・低生産性」に陥っていると考えられるのではないでしょうか。需要拡大の面だけでなく、供給面における生産性向上という観点からも、「賃上げこそ、最大の成長戦略」と言えると思います。

*この記事に関しては、みなさまからのご質問・ご意見などを踏まえ、補強していきます。
*この記事に関するバックデータは、会員向けの記事において、随時、提供していきます。

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